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ムハンマドがうまれたころの中東では、東ローマ帝国とササン朝ペルシアが激しく争っていた。このために、メソポタミアからペルシア湾を通る東西通商路は衰退し、シリアからイエメンまでの陸路、そして、アラビア海とインド洋を経由する航路が安全な通商路として栄え、ダマスカスとアデンの中間に当たるメッカは商業の拠点で、多神教の重要な聖地でもあった。

ムハンマドが属するクライシュ族は、ムハンマドから北部アラビアからメッカにやってきたクライシュを祖とする名門で、ムハンマドはハーシム家という一族に属していた。早く父母を亡くして、親戚のところで育てられたが、12歳のときにシリアにはじめて行商に行き、キリスト教にも触れた。ハーディシャーという富豪の未亡人に気に入られて結婚し、豊かな生活を送るようになった。

このころアラビア半島にもキリスト教やユダヤ教が入ってきており、人々を引きつけていた。東ローマとササン朝という二大帝国に衰えが見られ、商業的には栄えたアラブ人の社会だが、拝金主義などにより貧富の差が拡大したりして生活態度も乱れており、終末論が説得力をもった。

ムハンマドは商売の第一線を引退して、メッカ郊外の洞窟で瞑想にふけり、610年、「汝はアラーがつかわせた預言者である」という啓示を受けた。はじめのころの教えは、「最後の審判にそなえ、生活や行いを反省せよ」といった程度のものだが、伝統的な神を否定したことは摩擦を生み、妻や叔父が死んだことでメッカ地域社会での後ろ盾もなくなった。

ムハンマドは、メジナの町から内紛の仲裁者として招聘されたのを機会に信者とともに引っ越した。622年のことで、これをヒジュラ(聖遷)と呼ぶ。メッカからの隊商を襲ったり、差し向けられた大軍を破り、メッカ側についたメジナ在住のユダヤ教徒と衝突して、これを弾圧し、それまでエルサレムを向いて礼拝していたのをメッカの方角に変更した。

630年にはアラビア半島各地から集めた兵でメッカを囲み降伏させ、カーバ神殿の偶像を破壊した。この後もムハンマドはメジナに住み、各地から集まった信者たちに分かりやすいように、メッカを向いての祈り、毎日五度の礼拝、金曜日の共同礼拝、喜捨、ラマダンの断食という五行を定めた。信者としてすべきことの分かりやすさもイスラム教が現代でも信者を増やしている理由である。

これがイスラム教の誕生で、そのあとの展開は、本書をお読みいただければ幸いだ。

ところで、本書の表紙はちょっと優秀なデザイナーに頑張ってもらった。そのデザイナーがブログでいろいろ説明していただいているので、ぜひ、ご覧頂きたいと思う。

装丁『民族と国家の5000年史』『ウクライナの教訓』『歴史戦の真実』国家間の問題を考える育鵬社の三冊