検察官の起訴は、刑事訴訟法上は、刑事裁判を求める「検察官の行為」に過ぎないはずだが、日本では、公訴権を独占し、訴追裁量権を持つ検察官が「正義」を独占している。検察官の判断は「正義」であり、事実上、そのまま司法判断となる。
日本では、このように、警察の逮捕によって「犯罪者」としてレッテル付けがされ、それが、検察官の起訴で「正義」のお墨付きを与えられることで、「被告人=犯人」の推定が働く、まさに「推定無罪の原則」の真逆の構図がある。
そのため、起訴された被告人の多くは、自白し、裁判でも起訴事実を認める。「犯罪事実を認めず悔い改めない被告人」は、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎない刑事裁判の場に引き出される前に、「犯人視報道」が、「自白」に代わって、世の中での「有罪」の確信を生じさせる機能を果たすのである。
刑事裁判の手続においては、警察や検察に逮捕された者は、通常、潔く自白し、裁判でも罪を認めるのが「デフォルト」だと思われてきた。そこでは、被疑事実を争ったり、裁判で無罪主張したりする行動自体が異端視される。そのような人間は、罪を認めるまで身柄拘束されるのは当然だという考え方が「人質司法」につながる。
憲法上の権利である黙秘権を行使する被疑者に対して、警察幹部が、「犯人視情報」を提供し、それをマスコミが垂れ流す、その背景には、日本の刑事司法の構造そのものが存在するのだ。
このような、刑事裁判というものをおそろしく軽視した日本の刑事司法のままで良いのだろうか。刑事裁判の在り方そのものを、そして、これまでの「形骸化した刑事裁判」を前提にした犯罪報道の在り方を、根本的に考え直すべきではなかろうか。