その被疑者が真犯人であるかどうか、有罪であるかどうかの判断は、国家の公正な手続で行われなければならない。被疑者側の弁解や主張が全く行われない状況で、警察がマスコミを通じて一方的に世の中に「有罪の認識」を広めていき、刑事裁判が始まった時点では、既に世の中には「有罪の確信」が動かしようがないものになっている、というのでは、あまりにもアンフェアだ。

前記のような「犯人視報道」からすると、江戸川区立中学教諭が逮捕された殺人事件でも、被疑者が犯人であることは間違いないように思える。

しかし、それらの事実について、被疑者・弁護人に弁解・反論の機会が与えられたわけではない。「想定問答作成」にしても、どの時点で、どのような状況において被疑者が作成したのかによって、その意味は異なってくる。警察側の情報提供による一方的な報道をそのまま信じ込むことが危険であることは言うまでもない。

このように、被疑者逮捕後の「犯人視報道」によって社会の中に「有罪の認識」が定着するのが恒常化していることの背景に、日本の刑事司法の構造そのものの問題がある。

日本では、被告人が起訴事実をすべて認めた「自白事件」でも、検察官が「有罪を立証する証拠」を裁判所に提出する。その証拠が公判廷で取調べられ、裁判所が証拠に基づいて犯罪事実を認定し、有罪判決が言渡される。

ここでは、有罪判決は、裁判所の証拠による事実認定に基づいて行われているという「建前」が維持されているが、被告人が起訴事実を認めているのに、裁判所が、「証拠が十分ではない」と判断して「無罪」を言い渡した事例は、過去にはほとんどない。

つまり、実際には、日本の刑事裁判では、起訴される事件の9割以上を占める「自白事件」について、裁判所は量刑の判断をしているだけだ。それなのに、「証拠に基づいて事実認定を行う」という外形を維持するために「(当然)有罪の事件の司法判断」に膨大な労力と時間が費やされている。その分、被告人が無罪を主張する「否認事件」に費やす時間と労力が限られてしまう。このような刑事司法の構造の下で、有罪率は99.5%(否認事件だけでみても98%)を超える。

刑事裁判は、本来は、納得できない、謂れのない容疑で逮捕され起訴された者が、弁解・主張を述べ、裁判所がその言い分に正面から向き合い、証拠によって事実を確認する場であるはずだ。しかし、現実の日本の刑事裁判の多くは、「検察の主張どおりの有罪判決を、流れ作業的に生産する場」に過ぎないものとなっている。

「被疑者の逮捕」というのも、本来は、「逃亡のおそれ」「罪証隠滅のおそれ」がある場合に、それを防止するための措置に過ぎないはずだ。しかし、実際には、それによって、実名報道が行われ、「犯罪者」というレッテル付けが行われる。そのレッテル付けに「犯人性」の裏付けを与えるのが、警察情報による一方的な「犯人視報道」だ。