ロータスのキャンセルで急きょ開発したRA271

「ホンダF1の参戦は意味ある決断だった」最初期を彩った“黄金のRA270”と“急造のRA271”【推し車】
(画像=『MOBY』より 引用)

RA271はロータスのキャンセルからわずか4ヶ月でシェイクダウンしており、ロータスのせいで急造したというより、設計中の試作車を実戦用に「昇格」させたに近いと思われる

しかし世の中うまくいかないもので、「1台は2輪で名高いホンダのエンジンを使いたい」と言っていたロータスが、諸事情で2台とも従来からのコベントリー・クライマックスを使うことになり、開幕直前の1964年2月になって、RA270Eは宙に浮いてしまいました。

ならばRA270で出るかと言えば、前述の通りジャック・ブラバムから酷評される性能ですから、次期エンジンテストベッドの予定だったRA271を、実戦用マシンへと「昇格」。

エンジンコンストラクターとしてではなく、オールジャパン、オールホンダで1964年中の参戦を目指して、急きょ開発します。

重い、デカイと言われたボディはパイプフレーム式からアルミモノコックへ変更、リヤサスのマウント場所を確保すべく、エンジンそのものを剛性材として使う「ストレスメンバー」を先取りしたモノコック+スペースフレームを採用。

デカくて重い割にパワーがないと言われたRA270Eも、シリンダー間を詰めるなど苦労して全長を12cmも短く、軽く作り変えたRA271Eへ発展しますが、何しろ急造なもので無理な部分も出てきます。

もっともわかりやすいのがボディ後端に丸見えのバッテリーで、いくらミッドシップレイアウトでもこんなオーバーハングに重量物を積んでは意味がありませんし、フロントからのラジエーター配管もドライバーの肩口を通るので火傷する代物でした。

それでもロータスから断りの電報が入ってから4ヶ月後の6月には荒川テストコースでシェイクダウンし、軽くテストしただけで8月2日にニュルブルクリンクでF1グランプリ第6戦が開催されるドイツへ向け、RA271は慌ただしく旅立ったのです。

参戦する事に意義があった1964年のホンダF1

出場3戦完走扱い1回、最高位13位

「ホンダF1の参戦は意味ある決断だった」最初期を彩った“黄金のRA270”と“急造のRA271”【推し車】
(画像=『MOBY』より 引用)

狭いコクピットで計器も少ないが、オーバーヒートに悩まされたというので水温計は気になっただろう

どうにかニュルにたどりつき、3ヶ月前の第2回日本グランプリ(1964年5月)ではホンダS600でGT-Iクラス優勝の成績を上げていたものの、F-1レーサーとしては未知数のアメリカ人レーサー、ロニー・バックナムへRA271のステアリングを託したホンダF1チーム。

テストもロクにしていない急造マシンに新人ドライバーですが、「とにかく行って勝て」と尻を叩いて送り出し、勝てなければ「なんで勝てないんだ、次はどうするんだ、それで勝てるのか」という本田 宗一郎が、日本からスパナ片手に睨んでいては逃げ場がありません。

予選すら満足に走れなかったものの、温情で本戦のグリッド最後尾にはつかせてもらうと、奇跡的にマトモに走って22位(最下位)から一時は9位まで追い上げ、残り3周でナックルアームが破断しクラッシュしたものの、一応は完走扱いで13位となりました。

RA271の戦績はこれが最高で、9月のモンツァ(イタリアGP)、10月のワトキング・グレン(アメリカGP)もリタイヤで、結局参戦初年度は完走なし。

信頼性もさることながら、そもそも根本的に他のマシンより数十kg重いなど未完成にもホドがあり、しかもゴム製燃料タンクはレースを完走できる容量がなく、「出るだけだからスタートできればいい」と割り切っていたそうで、3回スタートできただけマシでしょう。

RA271EエンジンもドイツGP直後に京浜キャブから機械式インジェクションへ改め、翌年に向けた成果は十分に得て、翌1965年には改良版RA272でホンダF1は初勝利をあげました。

ホンダはなぜそこまでして「参戦」にこだわったのか

「ホンダF1の参戦は意味ある決断だった」最初期を彩った“黄金のRA270”と“急造のRA271”【推し車】
(画像=『MOBY』より 引用)

後端から丸見えの位置に重いバッテリーを積んでしまうあたり、RA271はまだまだ未完成のマシンだった

当初エンジンコンストラクターとして参戦する目論見が狂っても、独自マシンで生みの苦しみを味わってまでスタートした第1期ホンダF1ですが、なぜそこまでこだわったかといえば、「市販車への技術的フィードバック」を目的としていたからです。

もちろん軽トラ(T360)と小型スポーツカー(S600)しか作っていないホンダが、スーパースポーツをいきなり世に出すわけではなかったものの、技術者の育成という意味では十分にその目標を果たしていたと言えます。

何しろ当時のホンダは予算の7割をF1につぎ込んでいたと言われていますが、F1プロジェクトの立ち上げが一段落すると開発の優先順位がつけられて、新型の軽乗用車を最優先として開発力を注ぎ込みます。

その新型車へF1で鍛えたエンジニアたちが加わった結果、猛烈にパワフルでスポーティな軽乗用車「N360」として1967年に発売されると同時に大ヒット、ホンダを、そして日本の軽自動車やモータリゼーションを大きく変えていきました。

※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。

文・MOBY編集部/提供元・MOBY

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