衆院法制局が自民党内で、G7のすべての国で「性的指向・性自認に特化して差別禁止を定める法律はない」と説明したとの記述も重要だ。反対多数なのに議長一任となった5月8日の自民「内閣第一部会・性的マイノリティに関する特命委員会合同会議」で、その拙速を批判する論陣を張った和田政宗議員は自身のブログに法制局の資料を掲載した。

同記事の最も重要なポイントは、「議員立法は原則として全会一致で審議に入る慣例がある」との記述。「廃案の可能性」の根拠はこれで、与党案に反対する立憲が「2年前に超党派議連が中心になってまとめた法案を対案として国会提出する方針」を貫けば、国会審議に入れないことを意味する。泉代表が17日、エマニュエル駐日米大使に面会し、「議連案」を国会に提出する考えを伝えたというから、そうなる可能性は益々強くなった。

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与党案に反対する側の論調も2つ見てみたい。一つは2年前の自民党案への反対論を『現代ビジネス』に寄せた松岡宗嗣氏(一般社団法人fair代表理事)の論考「自民党が提案し自ら潰した『LGBT新法』をめぐる『6年間の経緯』」、他は5月17日の「東京新聞」の社説「LGBT修正案 人権感覚の欠如露わに」だ。

ゲイであることをカミングアウトしている松岡氏の1万字近い論考は、15年3月に発足した超党派国会議員による「LGBTに関する課題を考える議員連盟(LGBT議連)」(自民馳浩議員が会長)から説き起こし、21年6月時点までのこの問題の経緯を詳細に述べていて大変参考になる。

興味深かった記述の一つは、16年に自民党が設けた件の「LGBT特命委員会)」に「対する性的マイノリティ関連団体として『LGBT理解増進会』が作られ、代表理事の繁内幸治氏がアドバイザーとして就任。同会の顧問には、自民党特命委の議員が並び・・」というくだりだ。

松岡氏は、繁内氏が21年3月の「自民党・稲田朋美議員が共同代表をつとめる『女性議員飛躍の会』で、『暴走するLGBT』とうタイトルで講演」し、野党などの求める差別禁止法を「『差別の定義があいまいなため発言が一部切り取られ糾弾され、国民の分断を煽る』などと発言したという」と難じている。

また5月8日の合同会議で賛成した西田昌司議員についても、西田氏の「お互い我慢して社会を守る受忍義務」があり、こうした「道徳的な価値観」を無視し、「差別があったら訴訟となれば社会が壊れる」という内容の発言を、「性的マイノリティとそうでない人が“対等”かのような前提で、マジョリティの価値観を『道徳的』とし、それを守らなければ社会が崩壊するという主張は、性的マイノリティの困難や社会の不平等を矮小化するものだ」と両断する。

つまり「LGBT理解増進会」や繁内代表理事、あるいは顧問を務める自民党議員の古屋圭司や新藤義孝、またこの二人もひな壇にいた合同会議で賛成した西田氏らは、右からも左からも非難されているという訳か。松岡論文を読まなければ、彼らがひたすら左に阿って、今般の自民党特命委員会合同会議での強行に及んだと、つい思い込んでしまう。

野党の法案の主張に近いと読める松岡論文全文は別途お読み願うとして、筆者が気になったのは次の一文の「寛容」という語に対する知識の浅薄さだ。

理解増進法ができると「寛容な社会」が実現されるというが、そもそも「寛容」という言葉の意味は「過失をとがめず、人を許すこと」を指す。

筆者も日本は「『LGB』についても古来より『寛容』」と書き、「僧侶と稚児」の例を引いた。確かに大概の「国語辞典」の解説には、①「心が広く、良く人の言動を受け入れること」と並んで②「他の罪や欠点などをきびしく責めないこと」などと書かれている。

が、「百科事典」の解説には、「特定の宗教、宗派やその信仰内容・形式を絶対視して他を排除することなく、異なった立場をも容認すること」とか「広義には、自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し、また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないことを意味する」などとあり、ボルテールの「君のいうことには反対であるが、君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」が「寛容の精神」をよく示した言葉として引用されている。

松岡氏の様に「過失をとがめず、人を許すこと」という意味だけを強調すると、「過失」ありき、の議論になり勝ちだ。斯様に言論人は言葉を吟味して使う必要があるが、「東京新聞」の自民党案についての「差別」に関する下記の一文もいただけない。

法案の立法目的にあった「性的指向及び性自認を理由とする差別は許されない」という記述を削除し、基本理念にあった「差別は許されない」を「不当な差別はあってはならない」に修正した。

差別に不当も正当もない。仮に「正当な差別」があると考えるのなら勘違いも甚だしい。人権は全ての人が生まれながらに持っている権利だ。それを侵害するいかなる差別も許されてはならない。

「差別に不当も正当もない」というが、これだって「東京新聞」の主張したい「目的にあった」言葉の解釈ではないか。「精選版 日本国語大辞典」は「① けじめをつけること。差をつけて区別すること。②特に現代において、あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」と解説している。

だが「日本大百科全書」にはこうもある。

差異や種類別によって分けることが区別distinctionであるが、これをもっと狭く限定した概念が差別である。しかし現在、差別とはなんであるかという定義がまちまちであり、多くの場合、たとえば法律の分野においてさえも、差別と区別は使い分けられていない。この結果、反差別運動において差別という概念が恣意的に用いられ、運動が情緒に流れやすいのも無理はない。こうした混乱はしばしば極度の緊張をもたらすが、同時に、差し迫った差別の解消、社会的関心の喚起、および差別理論の解明などを促進する側面をももっている。

「差別に不当も正当もない」などと書くから、「差別という概念が恣意的に用いられ」、「しばしば極度の緊張をもたらす」のだ。「正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと」を一般に「不当な差別」と言うのではあるまいか。松岡氏といい「東京新聞」といい、都合の良い解釈で緊張を煽ってはいまいか。

松岡氏と同じくゲイを隠していない松浦大吾氏の、極めて穏当な4千字ほどのインタビュー記事もネットで読める。彼は、元々良くできていた21年4月の「自民特命委作成の法案」を修正した超党派の「議連案」に入った「差別は許されない」という語によって「さまざまなコンフリクトが生じてしまう」と述べている。安倍総理がこれに反対した由縁であろう。

筆者は「産経」が書くように「廃案」になることを望む。が、仮に「廃案」なったとしても、既に地方公共団体や企業に浸透しつつある様々な活動に歯止めを掛けるための政策を、政府は急ぐ必要がある。何でも先進する米国では学校はおろか病院でも、人権団体が採点したスコアを公表して経営に影響を与えるなど、想像し難い事態に陥りつつあるからだ。安倍元総理の薫陶を得た古屋氏や新藤氏や西田氏は、こういった観点から次善の策として今回の修正案を進めたように筆者には思える。

紙幅が尽きたので紹介だけすれば、松岡氏が「性同一性」も「性自認」も同じ「Gender Identity」の訳だとした関連では、「性的違和」と訳される「Gender Dysphoria」なる語があり、精神科領域の「American Psychiatric Association(APA)」のサイトに解説が載っている。それは、出生時に割り当てられた性別とgender identityの不一致から生じる心理的苦痛を指し、多くの場合小児期に始まるが、思春期以降、またはずっと後になるまで経験しない人もいるとある。

慶応大学病院「性分化疾患センター」のサイトは、「性分化疾患とは、ヒトの6つの性のうち、性染色体、性腺、内性器、外性器のいずれかが非定型的な先天的体質を指します」とし、次のような表を示している。

性分化疾患センターより

同じ様に、一般社団法人「日本女性心身医学会」は、「性同一性障害」の診断のステップを次のように解説する。

生物学的性(SEX)を決定する:染色体検査、ホルモン検査、内性器、外性器の検査を行って、正常な男女のいずれかの性別であることを証明します。 ジェンダー・アイデンティティの決定をする:生育歴、生活史、服装、これまでの言動、人間関係、職業などに基づいて性別役割の状況を調べ、ジェンダーの決定をします。 生物学的性別とジェンダー・アイデンティティが不一致であることを明らかにします。 性分化疾患などの異常はない・精神的障害はない・社会的理由による性別変更の希望ではない、ことを確認します。

以上の様な診断を経た「性分化疾患」あるいは「性同一性障害」の患者、すなわち「T」に対して、「不当な差別はあってはならない」と国民全員が願う社会の一員でありたいと思う。