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ホンダF1と国内フォーミュラへ大きな影響を与えたブラバム
「ホンダF1」の影で始まったブラバムF2プロジェクト

ホンダF1と国内フォーミュラへ大きな影響を与えたブラバム

「無敵のミッドシップ」が描いた国内フォーミュラの未来!日豪によるF2プロジェクト、ブラバム・ホンダBT18【推し車】
(画像=ホンダミュージアムに展示されている、ブラバム・ホンダBT18、『MOBY』より引用)

1960年代の第1期ホンダF1といえば、1965年にRA272で初優勝、その後何度か勝って1968年を最後に市販車へ注力すべく撤退という流れですが、華々しいF1よりちょっと地味でも、その後のホンダに大きな影響を与えたという意味で重要なのがブラバムBT18です。

1,000cc時代のF2でホンダエンジンを積みヨーロッパ各国のレースに出場、1966年に11連勝を上げたという記録もさることながら、ジャック・ブラバム、そしてロン・トーラナックという第2期ホンダF1に大きく関わる人物との出会い。

そして、このブラバムBT18と前身のBT16には、日本国内でフォーミュラカーのレースを盛り上げるのに大きく貢献したという、意外なエピソードも忘れてはいけません。

「ホンダF1」の影で始まったブラバムF2プロジェクト

「無敵のミッドシップ」が描いた国内フォーミュラの未来!日豪によるF2プロジェクト、ブラバム・ホンダBT18【推し車】
(画像=シンプルなコクピットにはシートベルトもなく…実は海外のレースででもシートベルトが必須となるのは1970年代はじめ頃で、「ホールド性が良すぎると冒険的な運転をしてかえって危険」という、今から考えると無茶苦茶な理由でシートベルト禁止のレースすらあった、『MOBY』より引用)

F1参戦を決めたホンダが参考に輸入したクーパーT53のコベントリー・クライマックスエンジンをメンテナンスしたり(※)、自身のチームがロータスと並びエンジン供給先の候補だったりと、ホンダF1にはその初期から何かと縁があるレーサー、ジャック・ブラバム。

ホンダがF1プロジェクトを始めた1962年にクーパーから独立して自身のチーム「ブラバム・モーターレーシング」を立ち上げ、共同創設者のローン・トーラナックが作ったBTシリーズ(※)のマシンでF1やF2へ参戦、マシンの販売も始めていました。

(※「BT」のBはブラバム、Tはトーラナックの頭文字)

マン島TTレースをはじめ、2輪の世界GPを制したホンダにはF1参戦の噂が出た時から注目しており、F2用エンジンの供給を依頼して1965年に1,000cc直4エンジンRA300EをBT16(※)へ搭載。

(※ホンダコレクションホールでも以前は常設展示だった、カーナンバー「4」のマシン)

ホンダがF1で当初目指した「エンジンコンストラクター(エンジン供給メーカー)」としての参戦は、ブラバムF2で現実のものとなりますが、1965年シーズンのエンジンはあまり調子が出なかったようで、途中からコスワースエンジンへ載せ替えられてしまいます。