現実的に秀吉が狙ったのは、朝鮮半島南部で領土を獲得し、朝鮮王府を監督下に置き、明との貿易を朝鮮経由でもいいから実現するあたりだった。

これでも夢みたいな話だと思う人が多いだろうが、島津氏が徳川家康に支援されて琉球に対し実現して、奄美を併合し、首里に代官を常駐させ、琉球との貿易を実質的にコントロールし、明もそれを黙認したのだから、非現実的でもなかったのだ。

家康も、関ヶ原の戦いのあと朝鮮に再出兵をするぞと恫喝して、緩やかな朝貢使節である朝鮮通信使の派遣、明との貿易仲介の依頼をしている。これは明に断られたのだが豊臣滅亡後に次の一手を打ったかもしれない。

ヨーロッパ諸国との関係では、スペインやイギリスと東日本から東回りの交流を試みた。伊達政宗が家康の了解の下で、支倉常長を派遣したのは、スペインにとってメキシコからマニラへは直行が可能だが、復路では風向きから北回りの大圏航路を通る必要があり、寄港地として東日本の港が欲しかったからである。

しかし、マニラの商人たちが「日本と中国を結ぶ通商が始まるとマニラが捨てられる」と心配して妨害したので、フェリペ3世の政府は伊達政宗の提案を受けなかった。

一方、イギリスは、難破したオランダ船にのっていた英国人ジョン・アダムス(三浦按針)の仲介で、ジェームズ1世の使節が日本に来た。しかし、東回り航路はポルトガルやオランダに押さえられていたし、南米最南端のマゼラン海峡周りでは遠すぎた。そこで、北極海回り航路が模索されたのである。夏の間だけなら可能なように見えたのである。

実は、イギリスは1584年にイワン雷帝のロシアと、イギリスと北極海につながる白海に建設されたアルハンゲリスクを結んで、ロンドンと夏の間だけの航路を開いたのである。

これに味を占めて、東インド会社は、1609年に探検家ハドソンをカナダに派遣して、ハドソン湾を発見し、西へ進もうとした。この冒険は、船員たちの反乱で、ハドソンは厳寒のハドソン湾に置き去りにされて行方不明になり、地名だけに名を残し、日本への航路も実現しなかったのだが、少なくとも当時は、まだ、非現実的とは考えられていなかったのである。

もし、これが実現していたら、それこそ、世界の歴史は変わっただろうが、自然の猛威はこれを阻んだ。ただ、地球温暖化が進み、砕氷船の発展してくると、今世紀のうちには、家康の夢が正夢になるかもしれない。

1865年(慶応元年)または1866年(慶応2年)にフェリーチェ・ベアトが愛宕山より撮影した江戸のパノラマ。Wikipediaより