2つ目に誰がどこまでの専門性をもって対応しているのかという点です。先週、弊社の駐車場の自動セキュリティゲートが開閉できなくなりました。2週間前に点検してもらったばかりです。その会社に電話すると違う人が現場に来て一言「これは電気が来ていない。だから2週間前の点検が原因ではない」と言い放ち帰ってしまいます。大きなビルで複雑な構造、その電源のブレーカーの場所を見たこともないため、電気屋と共に探すと「こんなところに電気室があったのか?」という場所にブレーカーが隠れていました。そして電気屋曰く「ブレーカーが落ちていたから入れたけど動かない。電気は来ているから電気の問題ではない」と。

再びセキュリティゲートの会社を呼ぶと2週間前に点検した人が「原因が分かった。交換した部品が不良品でショートしたんだ」と。確かに直りました。しかし、その担当者は謝りもせずさっさと帰っていきます。我々の苦労は何だったのだろうと思うのです。こんなケースはほんの一例で私の仕事はトラブルシューター(問題を直す人)と化しています。

街を見れば建築ラッシュですが、いつまでたっても出来ない建物もあります。隈研吾氏が設計している捻じれた形状の高層住宅が私の事務所の隣で建築中ですが、3年経ちますが未だできません。多分、意匠がカナダの基準には複雑すぎて工事業者のレベルがついてきていないのです。例えばバルコニーにバスタブが備わっているのですが、バスタブの水は重いので構造設計が複雑でより強固にしなくてはいけません。私から見れば「やりすぎ」で皆が同じレベルにないことが問題を難しくしていると思うのです。

我々の住む社会は便利になったことは事実です。これは10-20年前と比べ格段の改善です。しかし、それに合わせて一般の人はその改善や改革を享受する一方でそこに何か問題があった時、修復すべく手段を持ち合わせていないのです。その場合は「全部スクラップからやり直す」しか方法がないのです。

イーロン・マスク氏がツィッターを買収した際、彼は一旦会社を解体する勢いで改革を実施しました。それが将来的には功を奏するのかもしれません。マスク氏が天才であるならば中途半端にだましだまし時間をかけて改善するより既存の組織を一度ぶっ壊せ、の方が早いとみたわけです。その考え方は少なくとも今の北米に於いては正解のように思えます。

とすれば我々が今、生きている社会は必ずしも安定したプレートの上には乗っかっていないのかもしれません。そして人間が本来持つ潜在能力に蓋をし、人間がより楽にそして労せずして日々の生活を営めるような革新ばかりが目立つようになります。「労せず」というのがキーワードでしょう。

が、「労せず」して社会に甘んじていると必ずしっぺ返しはあるものです。現代社会においてスマホがないと生きていけない人ばかりになりました。20年前にはなかったのです。とすれば人間はそれだけ自立できる力が無くなったともいえるのです。

皆さんは手計算で四則演算ができますか?手紙をボールペンで書けますか?頭に記憶している重要な電話番号はいくつありますか?今週の予定、全部覚えていますか?ナビなしで目的地まで運転できますか?もはやできないことだらけなのです。

現代社会は展開が早すぎると思います。加速度がついてきているのです。それに振り落とされる人が大量に発生しつつあります。その時、我々はどう振り返るのでしょうか?「昔は不便だったけど単純でよかったなぁ」と。そういう方々はより保守的志向を強めるのです。分断社会の構造の一因でもあります。

社会への警鐘にもならないですが、意識しておくことは重要ではないかと思っています。

では今日はこのぐらいで。

編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年5月9日の記事より転載させていただきました。