石破茂です。

和歌山での首相襲撃事件について、「民主主義は卑劣な暴力には決して屈しない」のはその通りなのですが、それは我々政治家の覚悟の問題でもあるのではないでしょうか。

「誰でもいいから殺してみたかった」「有名人を襲ってみたかった」というような輩はいつの時代も存在するものです。

1990(平成2)年10月に、名古屋市の陸上自衛隊・守山駐屯地において、丹羽兵助・元労働大臣が駐屯地の記念行事に出席し、暴漢に刺殺された事件がありましたが、精神病院に通院・加療中だった犯人の動機は「有名人を殺したかった」というものでした。

丹羽元労相は当時当選12回、総務長官や国土庁長官も歴任された自民党の大重鎮であるにも拘らず、我々のようなまだ駆け出しの議員にも決して偉ぶることなく丁寧に言葉をかけてくださる、人格者の典型のような方であっただけに、とても驚いたことをよく覚えています。

政治家は街中にポスターを貼り、選挙になれば自分の名前を絶叫して己の存在を誇示するものですし、自分なりの主張を明確に持っていれば当然反対者も多くなるでしょう。日常活動もろくにせず、主義主張も明確ではない政治家など、存在意義に乏しいと言わねばなりません。

ですから政治家が標的になりやすいことはあらかじめ覚悟しておくべきですし、丹羽先生のような人格者でも狙われるのですから、こういった事件を根絶することは不可能に近いと思います。演説は必ず屋内でやる、入場者すべてに持ち物検査を行なう、政治家にはすべて警護官をつける、などというのはあまりに非現実的です。今後改善すべき点は改めるとしても、民主主義にはそのようなリスクが常に伴うことも認識し、覚悟すべきです。

和歌山の事件の容疑者の行為が決して容認されないのは当然のことですが、これとは切り離して、供託金を納めなければ公職に立候補できないのは違憲である、との主張については、今後検討すべき余地があるように思います。

OECD35か国中で供託金制度が存在しているのは13か国、その中で日本の次に高額な韓国が日本の半額、その他の国は日本円で約10万円以下なのだそうです。供託金は国会議員は選挙区で300万円、比例区で600万円、都道府県知事が300万円、都道府県議会議員が60万円、市議会議員が30万円、町村会議員が15万円となっていますが、この根拠もよくわかりません。候補者の乱立や売名行為を抑止するためとのことですが、どうして各種選挙に差を設けるのか。

日本国憲法第44条は「両議院の議員及びその選挙人の資格は法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産、または収入によって差別してはならない」と定めますが、供託金制度がその目的とする候補乱立・売名行為の抑止は、この憲法の趣旨を超える合理的な理由となるのでしょうか。