そのうえで、こうも語る。
我々人間は肉体という同じハードウェアの上で生きている、この肉体が滅びたらおしまいだという点で、誰しもが共通言語をもった存在だと思うんですよね。だから話し合えば分かるとは思わないけれど、殺したらみんな死ぬよね、という点では話が通じる、その意味で核戦略というのは、一番普遍的な共通言語という気もするんですよ。
ややポレミックではあるが、鋭く本質を突いた指摘ではないだろうか。だとすれば、「正論」拙稿が指弾した人々は、「普遍的な共通言語」を解さない連中ということにもなろう。続けて、村野将もこう語る。
私の考えも基本的に小泉さんと同じで、冷戦が終わって以降、今回のウクライナ戦争が一番核使用の危険性が高まった戦争であることは間違いないです。ただ、核武装している国を相手にする以上は、常に核エスカレーションのリスクを考えて行動しなければいけない。さきほど話した「核の影」の話がまさにそれです。潜在的に日本に戦争をしかけてきそうな国、日本が直面しそうになる安全保障環境の上では、北朝鮮と中国はどちらも核武装国ですから、これらの国と対峙して彼らの脅しに屈しないようにする場合には、必然的に核エスカレーションのリスクを伴うわけです。
しかし、だからこそ我々も万が一の場合、日本に絶対に核を使わせないためであれば、核を使う覚悟と向き合わなければならないし、あるいは核兵器を使われたとしても我々の覚悟は変わらないんだという強い意志と、実際に立ち向かうだけの能力を持っていなければなりません。核抑止の世界というのは逆説的なところがあって、我々が覚悟を決めるほど、結果的に相手の核の脅しの信憑性が落ちることになり、核の脅威は遠ざかります。逆に、我々があまり関心を持たず無防備のままでいると、むしろそれは相手の思うつぼで、実際に核が使われなくても、「核の影」が伸びてくる中で、核の脅しに屈しやすくなってしまいます。
果たして、来月のG7サミットで議論すべきは、本当に「核兵器のない世界」(岸田総理)なのか。先進国に暮らす私たちの「覚悟」が問われている。