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前回は、いわゆる「小西文書」に関する顛末について、報道は「政治的茶番」として取り上げるのみで、本質的な議論は提起されない現状を述べた。

(前回:放送法第4条と電波独占①:小西事案の本質的論点)

むしろ本件の核は「電波独占の撤廃の是非」にあるのだが、「今回も」その議論が国民的なうねりとはならないだろう。なぜか?それは、メディア、行政、政治が、それぞれの思惑で「電波独占の撤廃」を望んでいないからだ。

メディア、行政、政治の思惑

メディアが本質論から徹頭徹尾逃げ回っているのは、単純に「電波独占している特権の側にいる」からにすぎない。多チャンネル化したら自分たちのビジネスが成り立たなくなる。故に、「多チャンネル化して放送法第4条を撤廃しよう」なんて口が裂けてもいわない。

しかし、おそらく今後5年程度のタイムスパンで、そもそも8チャンネル独占というビジネスモデルそのものが盛大に崩れ去るだろう。しかし、それは本論ではないので別の機会に譲りたい。

次に行政だが、これも「放送法第4条」があるがゆえに「監督省庁」としてメディアに君臨することができる現状を手放したくはない。行政とは、規制あるところに権益あり、という原則のもと仕事をする組織だからだ。

政治について言えば、寡占的メディアが持つ「国民への影響力」に対して「モノが言える」状態を永続させたいという思惑がある。つまり、メディアが8チャンネルしかないならば、いうことを聞かない局に対して「おいコラ」と言って頭を抑えることができる。良きつけ悪しきにつけ、放送法第4条もその文脈で武器として使えるだろう。しかし、200チャンネル、あるいはネットの無限チャンネルが相手となると、政治的影響力を行使することは難しくなる。

メディア、行政、政治が一堂に会するということはないが、「まぁそういうことで皆さん、今回は馬鹿らしい政治的な茶番劇ということで」という暗黙の大団円があったかのような状態が現在だ。