そしていざ、遅れた青春を取り戻そうとしてもそのハードルは非常に高い。まず遊びに付き合ってくれる人を見つけるのに苦労する。カラオケでオールしたり、食べ放題で騒いだりということを楽しい、面白いと感じる感性の中年にあわせて遊んでくれる人はかなり少数派だ。しかし、そうした遊びに飽きなければ次の段階の娯楽はやってこない。
筆者にとっては創作活動は娯楽そのものなのだが、ここに来るまではいくつもの段階を経たという感覚がある。漫画やアニメ、ゲームに徹底的にハマりまくったり、友達と騒いだり弾丸ツアーへ行ったりとお金と時間をかけまくって全力で遊んだが、ある時こうした受動的な娯楽を急に楽しいと思えない飽きがやってきた。
今でも漫画とゲームは好きだが、それでも家事育児を除く時間のほとんどは仕事を通じた創作活動をやっている。理由は今の自分にとってはこれが受動的な娯楽よりも楽しいと感じるからだ。ゲームや漫画は仕事に疲れた気分転換でやるという感じである。
だが、もしも受動的な娯楽を飽きるまでやらなければ、絶対に創作活動までたどり着けなかったという感覚は強くある。つまり、遊ばずに大人になると遊びに付き合ってくれる相手に苦労する中で、受動的娯楽を孤独で楽しむことになってしまう可能性があるのだ。それは孤独感があると想像できる。だから若い頃に飽き飽きするまで目一杯遊びまくり、さっさと次のステージへと移動した方が良いと思うのだ。
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「遊ぶことは人生を楽しむために必要」という提案がしばしばなされるが、自分にとってみると「飽きてしまうことが時間の問題になってしまうと、人生で楽しいことがなくなってしまう。そうならないためにも若い遊びは若いうちに飽きるまでやりきって、次のステージへと移動した方がいい」という感覚がある。
なかなか言語化や共感を得るのは難しい主張かもしれないが、人生とはつまるところ、究極的な飽きとの戦いという本質からは逃れられないため、楽しく生きるためにはドライだが必要な考え方なのかもしれない。
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