結局のところ、百田氏は表面的には妥協しつつも、内心では「光輝ある皇軍」を否定したくないのだろう。

また単行本では「『大東亜戦争は東南アジア諸国への侵略戦争だった』と言う人があるが、これは誤りである」と記し、「『大東亜共栄圏」という理想』のために戦ったと強調する。アジア・太平洋戦争は植民地解放戦争であると言いたいのだろう。

ところが文庫版では「正確な意味での侵略ではありません」と述べる。「正確な意味での侵略」という表現は難解だが、資源奪取など侵略的性格を(消極的に)認めているとも受け取れる。それでも「(侵略的な側面もあったが?)正確な意味での侵略ではない」と強弁するところに、太平洋戦争を何とか肯定したいという願望が見てとれる。

煩瑣になるのでこれ以上は列挙しないが、典型的な右翼の言説が散見された『日本国紀』単行本に比べると、文庫版は表面的には主張を薄めている。本質は変わっていないという批判はあろうが、たとえ表面的であったとしてもリベラルからの批判に対応し穏当な方向に記述を修正している点は、いわゆる「ネトウヨ本」とは一線を画す。

この〝柔軟性〟は百田氏の思想が穏健だからというより、『日本国紀』が「日本通史の決定版」として執筆されたというマーケティング上の事情によるものだろう。

同書は、いわゆる「ネトウヨ」のみを購買層として想定して出版された「ネトウヨ本」とは異なり、より広い層を狙っている。だからこそ極端な主張を排除した「穏健で中立的な歴史観」という装いが必要だった。実際、以下のコラムでも指摘したように、『日本国紀』は単行本段階から中立的な雰囲気を出すことに腐心している。文庫版はその路線をより明確にしたと言える。

(呉座勇一の歴史家雑記)百田氏新作、過激と言うよりは

その企みは奏功し、『日本国紀』は大ヒットした。むしろ私たちは、同書の表面的な穏当さに対してこそ警戒しなければならないのである。

なお本稿の内容は、2022年1月14日にゲンロンカフェで與那覇潤氏・辻田真佐憲氏と行った鼎談「歴史修正と実証主義──日本史学のねじれを解体する」での筆者の発言内容を基にしている。

同鼎談の要旨は以下の記事に掲載されているので、ご参照いただきたい。