岸田文雄首相は21日、ウクライナン首都キーウを訪問し、ゼレンスキー大統領と会談した。その前、首相はキーウ近郊のブチャを訪問し、ロシア兵士に虐殺された犠牲者が葬られている場所で献花し、追悼した。短期間にキーウ制圧を考えていたロシア軍はブチャまで進攻したが、ウクライナ側の抵抗で後退を余儀なくされた。ブチャではロシア兵に目隠しされた後、頭を射たれたり、路上にいた市民たちも射殺された。ロシア兵が撤退した後のブチャには多くの犠牲者が路上や家屋内で見つかった。メディアは「ブチャの虐殺」と呼び、ロシア軍の戦争犯罪行為と報じてきた。

犠牲者を追悼する岸田首相 同首相Fbより

兵隊と民間人の区別なく砲撃するロシア軍の無差別攻撃はよく知られている。ブチャの虐殺、ウクライナ南東部の湾岸都市マリウポリの廃墟化が報じられると、欧米諸国はショックを受けた。ゼレンスキー大統領は昨年9月のウクライナ東部ハルキウ州イジュムでの虐殺を挙げて、怒りを抑えきれないといった表情で、「戦争犯罪だ」と激しく批判したことを思い出す。イジュムでは少なくとも440体の遺体が見つかっている。

ゼレンスキー大統領は西側でのビデオ演説ではウクライナの苦境を訴えた後、いつも武器の供与を求めてきた。「戦いは我々がするが、そのための武器を支援してほしい」というアピールだ。軍最高司令官としてゼレンスキー大統領としては外交辞令に拘る時間はないから、欧米諸国には単刀直入に「武器を送ってほしい」と訴えざるを得ないわけだ。

戦後生まれの岸田首相は戦後首相としては初めて戦場に足を踏み入れ、戦争のむごさに圧倒されたのではないだろうか。戦争は政治、外交の失敗の結果ともいえる。紛争、対立を政治的、外交的に解決できない結果、武器をもって相手を牛耳ろうとする行動に出てくる。その意味で、政治家や外交官はウクライナ戦争には責任がある。

それでは責任は政治家と外交官だけだろうか。一般の国民にも戦争の責任があるのではないか。同じ時代に生きているという「同時代の責任」ともいうべきものだ。

教会内や寺院での祈祷だけではない。人は首(こうべ)を垂れて祈らざるを得ない時がある。岸田首相がブチャの犠牲者の慰霊の前で首を垂れている写真をみて、同じように感じた。犠牲となった人々に対し、同じ時代に生きている人間の1人として、許しを乞い責任を感じるからだ。

ルイーゼの事件もそうだろう。12歳と13歳の児童だけではない。ルイーゼの家庭、学校関係者だけでもない、同時代の全ての人々が犯罪を防止できなかったことに責任があるのを感じる。

21世紀の今日、私たちは共に生きている。同じ時代に命を与えられ、生きているという「同時代意識」を持つことができれば、生きている時代への「責任」感が自ずと湧いてくるのではないだろうか。

犠牲者を追悼する岸田首相 同首相Fbより

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年3月22日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。