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ピカソとパリと戦争と
ゲルニカ誕生

ピカソとパリと戦争と

ピカソはその後、フランスのパリに住み始めました。この頃から世界には第二次世界大戦という戦争の影、とりわけヒトラー率いるナチズムがヨーロッパを侵食し始めていました。

そして、祖国スペインでは、ナチスの後ろ盾を得たフランコ将軍率いる反乱軍と、スペイン共和国政府(政府軍)による対立が悪化し、国内は内戦状態になってしましました。

当時の日本は、フランコ将軍側を支援していました。学校で習った『日独伊三国同盟』を覚えていますか??味方の味方は味方、ということですね。

そんな社会情勢の時、すでに巨匠としての地位を確実なものにしていたピカソのもとに1つの依頼が舞い込みます。それは、「パリで行われるパリ万博(1937年)のスペイン館の目玉に、"壁画"を描いてくれないか」というものでした。依頼者はスペイン共和国政府でした。

ピカソは悩みました。悩んだ末、ピカソはその申し出を受け入れることにしました。

ゲルニカ誕生

ピカソがパリに住んでいたころ、パリはナチスに占領され、スペインはそのナチスに迎合するフランコ将軍が力を持っていました。スペインがナチスに染まるのも時間の問題でした。

そのような状況の中、美術、"絵の力"でナチスに対抗してほしいという政府側の要望をピカソは受け入れました。愛する故郷が、ナチスのファシズムに塗り替えられることを、ピカソ自身も歓迎はしていませんでした。最初ピカソは、フランコ将軍を批判するテーマで絵を描こうとしていたそうです。

そんな時、運命の日がやってきます。

1937年4月26日。

スペインのバスク地方にある街・ゲルニカがナチスにより無差別空爆され、街が"全滅"してしまったのです。バスク地方は独自の自治を掲げ、民主主義と独立の精神をこの街で唱えていました。それを気に食わなかったのか、見せしめのためなのか、なぜゲルニカが狙われたのかは諸説ありますが、何の罪もない人々が大量の爆弾を投下され、その命を散らしていました。

その事実を新聞で知ったピカソは驚愕し、これまで考えていた作風やテーマを一掃します。アトリエにこもりきりになり、一心不乱に絵と、自分と、戦争と、人間と向き合っていました。

そして完成した縦349.3cm、横776.6cmという超大作。

【スペイン】ゲルニカの本当の意味を知ってピカソと出会う旅
(画像=<ゲルニカの意味を知ると見方も変わる...>、『たびこふれ』より引用)

逃げ惑う人々、荒れ狂う馬、泣き叫ぶ女性、ぐったりとした子ども...。

それはもはや「ゲルニカ空爆」に留まらず、戦争の持つ悲惨さ、人間の持つ残忍さを、同じ人間であるピカソの本能が、彼の身体を動かし、筆をとらせたような印象ではないでしょうか。

この絵がパリ万博で公開された時、各界の反応、世論の反応は実に様々でした。そして、なんとそれほど注目を浴びることはなかったとされています。