第2次世界大戦後、国際連盟に代わって現在の国際連合が創設された。そして1948年12月10日には国連第3回総会(パリ)で「世界人権宣言」が採択されて今年で75年目を迎えた。30年前の1993年6月には、ウィーンで「世界人権会議」が開催され、「世界人権宣言」の履行を監視するため、「ウィーン宣言および行動計画」として「ウィーン人権宣言」が採択され、同年12月に国連人権高等弁務官が創設された。

ジュネーブのUPR審査風景(2012年10月31日、ジュネーブの国連で撮影)
スイスのジュネーブでは国連人権理事会(UNHRC)が開催されるが、スイス公共放送配信のニュースレター(3月6日)は「世界人権宣言」75周年を迎え、その意義と課題を報じていた。そこで人権問題の基本法とも呼ばれる「世界人権宣言」を振り返りながら、現在の人権問題について少し考えてみた。
「世界人権宣言」では、第1条「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と記述され、第2条は「すべての人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と明記されている。
第2次世界大戦で民間人を含み7000万の人が犠牲となった。ユダヤ民族はナチス・ドイツによって600万人が虐殺された。そのような悲惨な戦争を体験した世界は「2度と戦争をしてはならない」という強い決意があった。それが国際連合の誕生であり、「世界人権宣言」となったわけだ。「世界人権宣言」文の起草委員会では故フランクリン・D・ルーズベルト米元大統領の妻エレノア・ルーズベルト氏が大きな役割を果たした。ルーズベルト氏は宣言を人権の「マグナ・カルタ(大憲章)」と呼んだという。
「世界人権宣言」は前文と30の条文からなっており、世界各国の憲法や法律に取り入れられるとともに、様々な国際会議の決議にも用いられ、世界各国に強い影響を及ぼしている。文面は高貴であり、それを読む人に勇気と希望を与えるものであることは間違いないだろう。
「世界人権宣言」を土台として、その後、さまざまな国際人権法が生まれてきた。「世界人権宣言」で規定された権利に法的な拘束力を持たせるため、『経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(A規約)』と『市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)』の2つの国際人権規約が採択され、その後も個別の人権を保障するために様々な条約が採択されている。例えば、「人種差別撤廃条約」(1965年採択)、「国際人権規約の自由権規約」(1966年)と「社会権規約」(1966年)、「女子差別撤廃条約」(1979年)、「拷問禁止条約」(1984年)、「子どもの権利条約」(1989年)などだ。