大学の学部等が紀要という学術誌を発行している。多くの場合、紀要には査読がないにもかかわらず、掲載された論文は正式な研究業績として扱われる。それゆえ、より掲載基準が厳しい査読誌等へ論文を発表する意欲が削がれる。また、かつては紀要には、査読の制約を受けず自由に論文を発表できる媒体としての意義があったが、プリプリント・サーバーが普及した現在、その意義も失せた。こうしたことから、紀要の各発行主体は、紀要を廃刊するべきである。

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紀要(大学の学部等が発行している学術誌)は、査読制度を採っていないことが多い。多くの大学の学部等は紀要という学術誌を発行している。紀要は、それを発行している学部等の教員が論文を発表するためにある。多くの場合、当該学部等の教員であれば、査読を経ずして紀要に論文を掲載することができる。

一方で、紀要論文は査読を経ていないにもかかわらず、正式な研究業績として扱われることが珍しくない。人事の際の判断材料にも用いられ、(助教から准教授への、あるいは、准教授から教授への)昇任の際にも、紀要論文が業績としてカウントされることも多い。紀要論文だけで昇任に必要な論文数を満たし、昇任することも可能である。もちろん、昇任の際に紀要論文の内容も審査されるが、同僚による審査であり競争的要素もないため、質の低さを理由に昇任が拒否さることはまれのようである。

こうしたことから紀要の存在は、査読誌等のより掲載基準が厳しい媒体での論文の発表のインセンティブを阻害する。査読のない比較的手軽に掲載できる紀要論文が正式な業績として認められるので、(媒体にこだわりのない教員は)わざわざより手間暇かけて査読誌等に論文を掲載しようしなくなる。また紀要に論文を掲載するよう編集委員から頼まれるというケースもあるらしく、これも査読誌等への掲載の妨げになる。

査読誌等への発表のインセンティブが削がれると、研究水準に悪影響を及ぼす。査読誌等に論文を掲載するには、当然その掲載基準を超えなければならない(査読誌のランクが高くなればなるほど,その基準は高くなる)。基準を超えるために研究に力を注がねばならず、研究水準の向上にプラスの影響を与える。

そうした外部の規律付けがなくても高水準の論文を紀要に掲載していると自負する大学教員もいるかもしれないが、査読誌に投稿してみればわかるが、自分では完璧に研究をし論文を書いたと思っても、なお、査読者から厳しいコメントが寄せられ改善の余地を思い知らされる。査読のような外部の規律付けによる切磋琢磨は研究水準の向上に有効であろう。

紀要には査読の制約なく自由に論文を書いて発表できる意義があるとの声もあるが、この意義は今日では失われている。たしかに、かつてはそうした意義があったかもしれない。しかし現在では各種のプリプリント・サーバー(正式な出版前に論文をインターネット上に公開する媒体)が存在し、紀要以上に自由に論文を公開できる。2022年3月にはJxivという、あらゆる分野をカバーした日本のプリプリント・サーバーが運用を開始し、日本語の論文も手軽に公開できるようになった。