五輪談合事件についてはどこかのタイミングでまとまった論考を作成しようと考えているが、ここでは報道を見ていて気になった一つの点に触れておきたい。

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テスト大会における計画立案業務の発注について逮捕された組織委幹部は当初随意契約を念頭に置いていたが、「組織委上層部は入札の実施を決定」し、それは「公費が入る事業であるがゆえ、透明性を求めた」(TBS NEWS DIGより)から、とのことである。

「入札は透明だから・・・」。一見するともっともらしいが、これはミスリーディングではないだろうか。

第一に、入札は透明だから実施するのではなく競争によるメリット=効率性を得るために実施する。裏を返すと、効率性が得られない、言い換えれば無駄が生じることが分かっているのに競争入札を強行するのはナンセンスだ、ということになる。

競争させるべきかどうか悩むときには、競争を優先するという判断は理解できるが、公費だから透明であるべきなので入札が妥当するというロジックには疑問がある。公費だから財源を効率的に用いなければならないので、だからその有効な手段として競争を用いる、というのが正しい。公費の場合、効率化のインセンティブが働きにくいからだ。

透明性の確保はその際に必要な条件だ。競争入札を用いても入札参加資格や仕様の設定、総合評価方式における評価項目の設定やその採点を恣意的に行うこともできる。競争入札だから常に公平、公正ではない。それを担保するのが透明性、すなわち情報の開示である。

随意契約の場合、特に特命随意契約の場合、競争入札よりも数段重い説明責任が生じるというのはその通りだろう。何故この業者と、この内容の契約を締結したのか。競争入札であればそれは競争の結果といえるが、特命随意契約の場合、そうは行かない。ただ、随意契約にもさまざまなタイプのものがあり、競争的なそれもある。競争の機能の仕方も多様だ。

競争入札は透明で中立で公正だから望ましいのではなく、透明で中立で公正に行われる競争入札が望ましいのである。そのような歪んだ理解があるから、持続化給付金業務委託に係る入札のあり方が批判されたとき、首相が国会の答弁で「一般競争入札のプロセスを経た(から問題ない)」旨の発言をしたのであるが、正しくは「公正なルールに基づく一般競争入札を公正なプロセスで実施した(から問題ない)」だ(本サイトの拙稿「持続化給付金問題② 公共契約において重要なのは手続的公正さ」より)。