ファルスタッフの理想的な歌い手として名高いバリトンのアンブロージョ・マエストリが1971年生まれと知ったときも驚いたが、確かに歌唱的にも演劇的にも瞬発性やノリが求められる役で、「年甲斐もない」求愛行動に出る翁の役は、若い歌手のほうが溌剌と演じられるのかも。スピーディなパスが繰り返される歌手同士の応戦が、オケのユーモラスなサウンドと絡み合い、次から次へとスリリングな瞬間が続いていく。

指揮はコッラード・ロヴァーリス。オーケストラは東京交響楽団。女たちのかしましさを薄い弦の音で伴奏するのだが、どこまでも「エラそうなことを捨ててみた」ヴェルディの徹底ぶりが伝わってくる。ベルカント的な作風に先祖返りした、という説もあるが、現代音楽を先取りしているような和声が聴こえたり(二幕のずぶ濡れのファルスタッフが酒に癒しを求める件など)、オーケストラの縦の線のボリュームが極端に伸縮したりするあたり、オペラ史の中でも特異な作品である印象を得た。

「誇りとは何か。ただの言葉。誇りで折れた指がつながるか? ノー。誇りで髪がまっすぐになるか? ならん」とうそぶいて、愛欲のままに二人の人妻にラブレターを書く。英語でいう「ダブルタイマー」なのだが、年中酔っぱらっている落ちぶれた騎士が、最後の最後まで愛を求めてしまうところが、なんだか可愛い。

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

好色な男の役は、すべてドン・ジョヴァンニの変装だとも思った。トスカを手籠めにしようとするスカルピアは二幕でずっとドン・ジョヴァンニのように飲み食いをしているし、ファルスタッフもかつては恐らく女たちから愛された好色の騎士で「わしが小姓だった頃は蜃気楼のようで、指輪も潜り抜けられた」と語る。女の尻を追いかけてばかりの小姓ケルビーノの成れの果てがドン・ジョヴァンニなのだ。

ニコラ・アライモは偉大な伝統を師匠や先輩から引き継いだのだろうか? 紛れもなく全オペラの中で貴重な役で、アライモ自身が20代でこの役を歌い始めているのも凄いことだが、非の打ちどころのないクオリティだった。

ファルスタッフは「登場人物」であると同時に、人間の真実であり宇宙の摂理なのだ。ラストシーンで袋叩きに会う場面で、「皆の賢さを作っているのは、わしの機知なのじゃ」と語るくだりは、劇の中からいきなり哲学者が出てきたかと思ってしまう。アライモは、この終幕部分は格別に冴えていた。

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

ヴェルディ的な登場人物は、「愛されないこと」に耐えきれず死んだり、苦悩の果てに憎しみの権化になる。フィリッポⅡ世やオテロの幻影がチラつく。「二人の女性がそんなに愚かだとお思い?」とクイックリー夫人にからかわれるファルスタッフは、急に世界全体の知恵となって、「何が悪いんだ」と開き直る。高慢に冷凍しているのはみんなのほうじゃないか。化石のような上流階級の夫婦たちの間で、牡鹿の角を生やしたファルスタッフだけが本音で生きているのだ。

ファルスタッフはヴェルディの最高の創造物で、ドン・パスクワーレのように若者たちに追い立てられる存在ではなく、逆に未来的だ。17世紀のオランダ絵画に影響を受けたというジョナサン・ミラーの演出は、床と壁がだまし絵のようになった美術も面白く、古のヨーロッパの人々の謹厳さと、未来永劫続く「人間性」という不思議な普遍性を繋ぎ合わせていた。

撮影:堀田力丸 提供:新国立劇場

非・濃厚接触のコロナ時代に、エロスはどのようなものになるのか。「人間性」はどこまで自由を表現できるか。ポスト・コロナ的な閃きを放つ、奇跡的な名演だった。ゲストの外国人歌手、日本人歌手勢も全員高水準で、クイックリー夫人役のマリアンナ・ピッツォラートの飄々とした可笑しさが忘れられない。