私が建てた集合住宅の管理組合とのご縁も切れません。役員でもないのに役員以上の関与をすることもあります。例えばある水漏れの修復に管理組合が雇う運営会社は修理にあたり、高額のコンサルタントに修理の方法を検討させます。その結果、複雑な工事を示唆され、それを3つの業者に見積もらせたらどこも3000万円程度となり、管理組合が私にヘルプを求めてきました。私は見る視線が違うとすぐに感じたのです。コンサルはリスクを取らない最大限の安全策を提示します。しかし、時としてそれは過剰であったり、無意味な自己防衛なのです。運営会社はそれ以上に責任を取りたくないので当然安全策=高額な工事費はやむを得ないと他人事のように言います。
私は何人か知り合いの工事業者に見せ、最終的にある業者に見積もらせたら500万円程度でした。単価の差ではなく、何処で何をするのか、そもそものポイントをチェックし、全く違う発想を取り込んだ上でピンポイントの作業を考えたのです。もちろん、管理組合は了承します。一方、運営会社はそれ以降、その件で私には一言も触れなくなりました。
日経ビジネスの「繰り返される『多様性なき調和』の悲劇 五輪汚した『普通の人々』 権威への服従が醜態招く」という記事の趣旨は、高橋容疑者の暗躍を許したのは周りにNOと言えない環境があったからだという訳です。では一般企業などでNOと言えるのか、といえば基本的には波風を立てたくないのでできないという人がほとんどでしょう。
これ、ある意味、日本のいいところでもあり、悪いところでもあるのです。それは和であり協調です。しかし、ときとして「悪との和」もあるのです。連続強盗事件やオレオレ詐欺の指示役から逃れられないのは、逃げようとすれば復讐されるから怖いわけです。ある意味、誰と協調するかでその人の人生が決まってしまうような世界すらあるのです。昨年秋の5歳児餓死事件の主犯の赤堀恵美子に対してNOと言えなかった母親の弱さは私には衝撃的印象でした。
ではお前はなんで好き勝手なことを言えるのか、と聞かれれば究極的には孤独でも全く困らないから、というのが答えかもしれません。人は普通、誰かと繋がっていたい、と思います。仲間に入ることが義務のようになっています。女子高生はKYで仲間外れにされます。なので、いやいやでもどこかのグループに所属するのです。それは逆に言うと自分が弱いからともいえるのです。強くなれば別に一人でもいいし、必ず自分に共鳴する人はいると思っています。
つまり最終的には全く孤独になることはあり得ないというのが私の落としどころです。自分の周りにいる人がどんどん変わるだけです。これまた理詰めだな、と言われるかもしれませんが、私が強くなったのは異国の地で誰も知己がいない中でゼロから立ち上げてきた努力と年輪の積み重ねが理由なのかもしれません。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年2月19日の記事より転載させていただきました。