目次
3. 大規模反乱再び
4. 繁栄の先に

3. 大規模反乱再び

慶広は名君としてたたえられることが多い。時流を見極めるのがうまく、領内の統治にも成果をあげているからだ。一方、秀吉に続き家康からも一定の蝦夷地支配権を得たことで、アイヌに対しては、力による支配が目立つ。父が築いた平和路線は崩れ始めた。

5代藩主矩広のころ、いまの静内町の首長シャクシャインが、大規模な反乱を起こす。対立する部族長の親族が、松前藩に救援求めた帰りに病死。「毒殺」と誤解したことが発端といわれる。加えて江戸幕府のお墨付きを得た、松前藩による不当な交易も背景にあるとされる。増毛や釧路など各地から応援を得た。
寒冷地のため、米が取れない松前藩の〝給料〟は、アイヌとの交易権保証である。サケを例すると、当初は100尾で米2斗と交換していたが、やがて7〜8升まで下がったという。子を人質にとり、強制的に交易させることもあった。背景には民族的な差別がうかがえ、シャクシャインらの不満は日頃から溜まっていたと思われる。

武装蜂起したシャクシャインらは、いまの国縫で松前藩を中心とした和人軍と激突した。武器の質や和人側に協力したアイヌに苦しめられて後退。それでも徹底抗戦の構えを崩さなかった。松前藩は幕府の評価が下がると考え、偽りの講和の席で、シャクシャインらを騙し討ちにしたのである。以降、松前藩によるアイヌとの交易は、一時期幕府の直轄となるが復活。一層強固になった。こうして幕末を迎えるのである。

4. 繁栄の先に

蠣崎(松前)家は「生まれつきの領主」ではない。戦国時代多くの家が衰退する中、未開の地に根付き、「舌」でのしあがったのである。外交手腕は見事だ。

権力者のお墨付きを得て、力任せにみえるアイヌとの交易も一定の成果を出している。現にシャクシャインの乱の際には、松前藩に味方するアイヌも大勢いた。和人との交易に得もあったのであろう。続く「クナシリ・メナシの戦い」では、自分たちに協力したアイヌ首長を城に招き、肖像画を描くなどしている。こうしてみると、日本史において。被害者とされることが多いアイヌに疑問が生じる。彼らも部族間で争い、利を求める部分もあるからだ。その部分は「正しい歴史」として後世に伝えていくであろう。

一方、突然自分たちの土地に踏み込んできた和人と不当な交易。明治から昭和まで「土人」と蔑まれた歴史も事実である。その屈辱は筆舌しがたいものだ。要因を作ったのは「蠣崎家」である。「平和」な現代を生きる我々は、驕りから他人を無意識に差別をしていないだろうか。注意したいものだ。

画像引用:Unknown photographer, Public domain, via Wikimedia Commons

提供元・北海道そらマガジン

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