織田信長、徳川家康、上杉謙信・・・群雄割拠の戦国時代に未開の地蝦夷地に本拠を置く大名がいた。蠣崎氏(のちの松前氏)である。
反乱鎮圧の武功でいまの函館近辺に領地を獲得。その野心は北に向けられ、先住民族アイヌと幾度となく衝突、交易を行い命脈を保ってきた。彼らもまた北海道の歴史を語る上で欠かせない「先人」である。
十分な軍事力を持たない彼らはどうして大名として幕末を迎えられたのか・・・・、過程を考証していきたい。
1. 信広、蝦夷地で再起
蠣崎家の祖である武田信広は、若狭(いまの福井県)出身。松前藩の歴史書「新羅之記録」によると、室町時代に生まれた信広は武田信玄の縁戚である守護大名の家に生まれた。家の騒動に巻き込まれ、陸奥(いまの青森県)で領地を得ていたが、近隣の大勢力南部家の侵攻を受け、蝦夷地に逃れたという。
不遇の人生であった信広を見出したのが、いまの檜山郡上ノ国町を治めていた蠣崎季繁であった。季繁は、コシャマインを首長とする先住民族アイヌとの抗争に悩み、客将である信広を総大将に任じた。(1457年、コシャマインの乱)信広は追い詰められていた和人を率いて戦い、やコシャマインを討伐。その功績で季繁の婿養子になったのである。一方でアイヌと和人の溝は一層深くなり、信広たちも戦いに明け暮れるのである。
2. 近世大名に成長
終わりみえないアイヌとの戦い。平和外交に方針転換したのが、信広のひ孫季広である。アイヌが持つ技術は、当時の和人たちにとって珍しいもので、京都などで高く売れた。「争うより交易をした方が得だ」と考えた季広は、彼らの領地を認めたり、本州からの徴税を分配するなどして近隣のアイヌ首長と和睦。道南の支配権を確立した。また13人の娘を同じく和人の領主に嫁がせている。一方、蝦夷地の実質的な支配者であったのは、信広とともに一時期蝦夷地に逃れた安東家(いまの秋田県の領主)であり、季広らは手伝い戦も請け負った。
続く息子の慶広は、お家騒動で勢いを失った安東家に見切りをつけ、中央の権力者豊臣秀吉に独断で拝謁。独立大名として認められた。1591年の南部家臣九戸政実の乱では、アイヌの部隊を率いて参戦。毒矢が大変脅威であったと当時の文献にある。この出来事は、慶広がアイヌの「支配者」であると印象付けた。以後、秀吉のお墨付きを得た慶広は支配者の道を歩むことになる。やがて江戸幕府初代将軍徳川家康への取り入りにも成功し、姓を松前と改めた。