こうして、政策を褐炭採掘許可に切り替えざるを得なくなった緑の党を、当然、活動家たちは裏切り者と見た。ちなみに朝日新聞は22年の7月、「迫る巨大掘削機 また村が消える 『脱原発』ドイツでいったいなにが?」というタイトルで、活動家に共鳴した記事を掲載していたが、実際にはこの頃、ドイツの空気はすでに変わっていた。

エネルギーの高騰で困窮していた国民の多くは、リュッツェラートの抵抗運動も、あるいは、美術館で有名な絵画をスープで汚したり、接着剤で道路にくっついて渋滞を引き起こしたりし始めた活動家のことも、冷ややかな目で眺めていた。しかし、10月になって、国と州の経済大臣が正式にRWEにゴーサインを出すと、抵抗運動はさらに激しさを増した。

1月、リュッツェラートの褐炭採掘への準備は最終段階に入り、すでに整地された採掘予定地は、1本の木もない、いわば広大な平原となっていた。ところが、そのほんの一角で、活動家たちが空き家を占拠し、あるいは、木の上に作った小屋に立て篭もり、最後の妨害をしていた。今やこの妨害者たちを立ち退かせるのは、警察の仕事だった。

緊張状態の下、1月14日、この広大な敷地で大規模デモが開かれた。遥か彼方まで広がる褐炭を含む地面は、降り続いた雨のせいでひどくぬかるんでいた。そこに集結したデモ隊の数、1万5000人(主催者側の発表では3万5000人)。対峙した警官は3700人。駆けつけたグレタ・トゥンベリ氏もマイクを持ち、褐炭採掘を擁護した緑の党を強く批判。集まった人々に抵抗を続けるよう呼びかけた。

平和理に進むはずだったデモは、しかし、エスカレートした。エスカレートの原因は、デモ隊が警官の封鎖を突破し、危険地域に侵入したことだった。敷地の先方は何十メートルもの深さの崖(すでに採掘が済んだ場所)で、まさに奈落となっている。特にこの日は長雨のため地盤が緩み、地滑りが起こるかもしれないという危険な状態だった。崩落になれば大惨事だ。だからこそ封鎖してあったのだが、そこにデモ隊が近づき始めた。そして、それを防ごうとする警官隊と正面衝突になった。

ドイツで過激な環境運動家たちが行う抵抗運動というのは、日本人の想像を超える。どちらかというと、60年代の成田空港建設をめぐる三里塚闘争に似ている。盾を持って妨害する警官隊に、投石が行われ、ロケット花火が打ち込まれた。それに対し警官隊はペッパースプレーで応戦、騎馬隊や放水車まで出動した。デモは3日間続き、怪我人の合計は、警察側が100人以上、デモ隊側は300人と言われた。

トゥンベリ氏の“拘束”は2日目のことだが、これは、彼女が警察の警告を無視して封鎖地域に近づこうとしたときに起こった。しかし、その後まもなく、彼女が自分を抱えている警官とにこやかに話している写真や、抱えられたまま、全てのカメラマンが撮影を終えるまでポーズを取っている場面のビデオが出回り、「いくら何でもこれはやらせだ」という声が上がった。興味がおありの読者にはご自分で判断していただきたい。

しかし、16日には、リュッツェラート村で木の上にいた人も、トンネルを掘って潜っていた人も、何の抵抗もせずに警官に“保護”され、 “掃討”は完遂。その後、あっという間にRWEが整地を終えた。リュッツェラートには、今、静けさが戻っているだろう。

ちなみに、現在、トゥンベリ氏の故郷スウェーデンは、クリーンなエネルギー確保のため、急速に原子力発電の拡充に舵を切り始めた。一方、トゥンベリ氏に手ひどく批判された緑の党のハーベック経済・気候保護相は、原発は今年4月15日で止め、脱石炭は2030年に繰上げ、あとは風力にドイツの運命を委ねるという。

ドイツはまもなく恒常的な電気不足に陥るだろう。そのドイツを未だに誉めている日本のメディアは、やはり周回遅れである。