問題は次だ。議論を呼んでいる同性婚問題は上記の2つの運動とは異なり、「差別撤回」を最終目標としてはいない。社会的認知だ。生物学的な「性」、それから派生する「性的指向」は基本的には男と女という「2性」の世界での問題を扱う一方、同性婚はその「2性」の枠組みを変えていこうとしているのだ。岸田首相が「同性婚は社会を大きく変える」という趣旨の発言をしたが、同性婚は社会だけではなく、人間の在り方を根本的に変える試みだ。

神が自身の似姿として男と女を創造された、それを見て良しとされたという旧約聖書の「創世記」を読む限りでは、全ての存在は「2性」によって生存し、反応し、繁殖している。だから、同性婚が本来の姿ではないと説明することは容易だ。しかし、無神論者や聖書に関心のない人にとっては説得力のある説明とは言えない。神の助けを借りずに同性婚が間違いであると説明しない限り、同性婚支持者を説得することは難しいだろう。

ちなみに、同性愛自体は20世紀以降見られる新しい社会現象ではなく、大昔からあった。聖書の中でも同性愛者は登場している。「同性愛者は歴史的に男と女の2性の世界の調停役を演じてきた」と主張する学者もいるほどだ。「2性」の世界にどうして「同性愛者」が存在するかを説明するための懸命な論理だ

まず、男と女から成る「2性」の世界では、同性の婚姻は生物学的には認められない。人が鳥のように空を飛べないのは、人が空を飛べる生物ではないからだ。ローマ教皇フランシスコは「同性愛は犯罪ではないから、差別してはならない」と指摘する一方、「同性間の性的行動は認められない」とはっきりと述べている。なぜならば、人間はさまざまな性的指向を有しているとしても、それは「2性」の世界の多様性だが、同性婚は「2性」の枠組みを超える行為となるからだ。

神の創造論では人間は男と女の「2性」から創造された。それが神の似姿というから、神も2性の存在という結論になる。そして人間が繁殖するために2性間の性的行為が行われる。一方、同性婚は繁殖できないうえ、生物的には同性間の性的行為は様々な疾患を生み出す危険性がある。すなわち、同性婚は「2性」の世界でのレッドラインを越えているのだ。人間社会はそのレッドラインを無意識にもこれまで遵守してきた。そして異性婚の「2性」の世界、社会を構築してきたわけだ。

実際、同性婚を要求し、同性間の性的行為をする同性愛者の数は少数派に留まるだろう。大多数派は異性間の婚姻をする。同性婚を支持する左派系知識人、メディアは寛容、多様性という言葉を駆使し、同性婚をあたかも性の多様性という観点から論じているが、性的行為を含む同性婚は全く次元が異なる問題だ。大げさに表現するならば、同性婚は「2性」の調和で成り立つ宇宙の秩序に反しているのだ。これを喜ぶのは「この世の神」(悪魔)だけだろう。

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編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年2月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。