学校の宿題はChat GPTで、という流れが出来て、使用禁止や宿題を手書きに戻すというような動きは既に一部ではあります。そのうち、学者が研究をせずにこのChat GPTで研究論文を書き、手口が巧妙過ぎて誰も発見できないという問題も生じるでしょう。
我々はパソコンやスマホを使ってピンポイントの情報を得ることができます。例えば移動に際して最も早い経路を探したり、詳細な天気を聞いたり、文章の表現や文法を直してもらったりといった部分部分のサポートを享受しています。しかし、Chat GPTは部分ではなく全部を手伝ってくれることから人間不要とまではいいませんが、考えたり、行動するにおいて何も判断を求められないし、する必要もありません。果たしてそれが500万年かけて培ってきた人間の求めるものなのか、人類滅亡の前兆なのか私には危惧するものがあります。
私は人間はコンピューターの時代を迎えた際、人間以上の能力や適性を持った部分について「外付け」してきたと考えています。その第一弾がスピードある情報量、第2弾が無限の記憶容量です。私はChatGPTは第3弾である「演算機能の外付け化」だと思っています。つまり、第2弾である図書館に行き、読書、知見、経験をして得たインプットに基づく人間がやってきたまとめ作業を不要とし全部Chat GPTに任せればよくなるのです。そんな馬鹿な、と思うかもしれませんが、原理的にはそういうことです。
何故、人類はこういう進化を遂げたのでしょうか?私はキリスト教にある労働は罰則であるという発想があるのではないかと考えています。つまり、人間はいかにして楽をするか、です。西欧の世界では楽をすることを目標として進化が進みます。休暇やバケーション旅行の発想は典型です。一方、アジアでは制御の思想です。中国が顔認証を普及させているのもその一例でしょう。日本でも様々な規制が発展を妨げているとされます。ここに技術開発思想の大きな違いがあるように感じます。
是非論をするまでもなくChat GPTは既に存在し、更に進化を遂げています。マイクロソフト社は本日、そのChat GPT同社製品に搭載することを発表し、グーグルとのライバル関係を明白にしています。
この技術がさらに進化すればコンピュータープログラマーもいらなくなるかもしれません。自律進化を遂げるのです。ここまでくるとSFの世界ですが、あまり笑っていられないと思います。このブログだってそのうちひろが書いているそぶりを見せて、実はChat GPTで書いているかもしれません。そうしたらきっとツッコミどころがなくてつまらないかもしれません。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年2月8日の記事より転載させていただきました。