リカレントにしろリスキリングにしろ、社会人になってから無縁と思えた学びは今、再び我々の人生に主たるテーマとして降りてきたとも言えます。ならば、大学は卒業するところではなく、ご縁を頂いたところである、という発想に切り替えたいのです。つまり、4年勉強してようやく入口に立ったのだということです。社会に出て学びを実践してそこで得た様々な試練や経験を母校の大学とリンクをして双方向化させるのです。

大学教諭はプライド高い学者であります。ある意味、違う世界に生きる人々であるような扱いです。が、産学共同という言葉があるように大学教育は実社会に接している面も大いにあるわけです。例えば私は今、新しい取引先となるカナダのある図書館から「選書込みの発注」が入っています。その選書、普通なら売れ線のものを適当に選ぶでしょう。私はそんな仕事の仕方はしません。ライブラリアン(司書)の方針、選書の目的論を引き出し、図書館と利用者の最大公約数を求めるのです。これなど、とても学術的で知識と経験を求められる作業なのです。

とすれば何らかの形で大学と在学生、卒業生をリンクさせ、学びのアクセスを提供することは意味あるアプローチになるのです。日本には大学が790ほどあります。京都府だけでも50もあるのです。しかし、少子化で大学全入時代となり、大学経営は危ぶまれています。それは学生という発想の縛り、基本4年間という在学期間の枠に囚われるからです。一度入ったら一生のコネクション、そして大学は卒業生をいつでも学びの基地として取り込めるビジネスをすればよいのです。

江戸時代の寺小屋は先生が子供に教えるのではありませんでした。あくまでも子供たちの自主勉強であり、先生は個別指導だったのです。今のような全員が黒板に向かって2-30人の生徒が落ちこぼれようが居眠りしようが関係なく一方的に授業が進むものではなかったのです。ある意味、日本人は寺小屋時代から劣化した部分があります。

寺小屋での自主勉強という発想を今、取り戻し、学びやすくすることは日本人にとって相性がよいはずです。母校に戻り、一週間、スマホを使わず、クラスで勉強漬けをして完全に自分を別次元に送り込む、図書館で必死に予習復習をし、テストに向けて頑張る、そんな刺激があれば素晴らしいと思います。そのアクセスを提供できるのは母校である大学ではないかと考えています。

では今日はこのぐらいで。

編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年2月5日の記事より転載させていただきました。