こんにちは。旅する元世界史教師のまえてぃーです。
新型コロナ感染拡大防止の昨今。「旅」が、できない世の中になってしまいましたね。
それどころか、やりたいことができなかったり、大好きな人たちと会うことが難しかったり、今まで出来ていた「当たり前」が急に消えてしまいました。
「やりたいことができない」「会いたい人に会えない」「行きたい場所に行けない」というストレスは、人間にある程度の適応能力があるとはいえ、思った以上にストレスを感じている人も多いのではないでしょうか。もちろん私もその中の一人です。
「いつかできるから頑張ろう」「楽しいことを考えよう」、なんて前向きな言葉や想いを抱いたとしても、ふと悲しくなる瞬間もありますよね。
今日はそんなみなさんに送る、アンネ・フランクの心の持ち方です。読んだ後みなさんの心がちょっと軽くなってたらいいなと思います。
目次
アンネ・フランクの生涯
アンネ・フランクの隠れ家生活
アンネ・フランクが残した言葉
"いつか"を信じて
アンネ・フランクの生涯
アンネ・フランクは1929年にドイツで生まれました。アンネの両親はユダヤ人であり、その娘のアンネももちろんユダヤ人でした。
第二次世界大戦勃発前、ヒトラー率いるナチス政権がドイツの政権を握りました。ヒトラーの政策により、ユダヤ人は迫害を受け始めます。住む場所を決められ隔離され、自由を制限され仕事も制限されました。そしてそれだけでは終わらず、ここから悲劇は始まります。一言に「迫害」と言っても、自国であるドイツからただ追い出されるわけではなく、ヨーロッパ各地に建設された強制収容所に送られ、過酷な環境での労働や人体実験、そして数えきれないほど多くのユダヤ人がガス室へ送り込まれ、殺害(処分)されました。

ドイツにいては危険ということで、アンネ一家はオランダへ向かいます。束の間の平穏でした。
しかし、第二次世界大戦が勃発。1940年、ドイツがオランダへ侵攻し、オランダは陥落(降伏)しました。オランダはナチス政権のものとなり、ユダヤ人に対する風当たりは強くなりました。監視され、あらゆるものを制限され、差別をされ、自由はどこにもありませんでした。
アンネ・フランクの隠れ家生活
1942年、アンネ一家はオランダのアムステルダムのとある家に隠れ暮らします。父親の会社の同僚が手を差し伸べてくれたのです。アンネ11歳の頃でした。
そこにはアンネ一家のほかに数名のユダヤ人も暮らしていました。見つからないように、昼でも夜でも家の中でも物音をたててはいけない。見つかれば収容所へ送られてしまいます。「自分の存在を消すこと」でしか、生きることには繋がらない過酷な状況が続きました。
そんな状況が2年を過ぎた頃、1944年8月、ついにアンネ一家は警察にみつかりアウシュビッツ・ビルケナウ絶滅収容所へ強制移動させられてしまいます。そしてそこからさらにアンネと姉はベルケン・ベルセン絶滅収容所へと移動させられます。当然ながら劣悪な環境で、食事はほぼありません。寒くても上着なんてありませんし、暖かいスープもありません。あるのは「死」を待つ順番のみ、でした。
そしてアンネ姉妹は収容所内で蔓延していたチフスにかかり、1945年2月、2人一緒に天国へと旅立ちました。ドイツが戦争に破れ、イギリスの連合軍により収容所が解放されるたった2ヶ月前のことでした。