ロシアがウクライナと停戦に合意する条件はウクライナ4州を併合完全支配だと予想しています。一般的な国際世論やメディアのトーンは「力による一方的な現状変更は許されるべきではない」であります。それは至極当たり前ですが、プーチン氏はバカではないのでこれだけのリスクを冒したのはプーチン氏の言い分、理由、背景が存在します。激しく反応するゼレンスキー氏が徹底抗戦を叫ぶのはある意味、戦国時代の陣取り合戦と同じような背景を見て取っています。

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領土とは何でしょうか?だれがどうやったら支配するのでしょうか?そのあたりを少し掘り下げてみたいと思います。

北方領土の歴史の話を少ししましょう。江戸時代、北海道は道南地方のごく一部を松前藩が押さえましたが江戸幕府の生命線であるコメの生産が北海道では当時できず、漁業のみに頼ります。それらが高く売れたことで「コメが出来ない松前藩では白い飯が食える」とされました。故に松前藩は海だけがビジネス上の要地であり、内陸部には一切興味を示しません。また松前藩は北海道の蝦夷人(いわゆるアイヌ)と和人の接点を禁じました。故に北海道はずっと未開拓で蝦夷人とは一線を画し、かつ、言葉も違うためにコミュニケーションすら取れなかったのです。

当時、北海道東部においては釧路の東約50キロのところにある厚岸町や根室が最良の港でそこを起点として千島列島の足掛かりとなっていました。蝦夷人が漁業を営む目的もあったし、松前藩や幕府が北方開拓の拠点にもしていました。ただ、千島列島は極めて広範であり、かつ、活動できる期間が年のうち数カ月しかない流氷と厳寒の地であり、蝦夷人ですらさほど多くが千島の島々に居住していたわけではありません。

その頃、ロシアはクロテンなど毛皮貿易が欧州諸国と活発でシベリア開拓を進めます。その開拓はより東に向かい、カムチャッカ半島に到達、そこでラッコを見つけます。この皮が高価で取引されたため、ラッコの狩猟で千島を南下したのが原型です。その際にロシアの探検隊は千島をカムチャッカから南に下がる形で探索し、一部のロシア側歴史書では北海道を含めた島々をクリルとして認識していたようです。