山田さんの指揮には官僚的なところが全くないのだ。21世紀にチャイコフスキーをモダンに振る、軽やかな新解釈で聴かせるなんていうダサいことはしない。全細胞から血が噴き出しているような強烈なチャイコフスキーで、これを書いていたときに作曲家は8年後の無念の死を既に予想していたかのようだ。運命的なものがどんどん迫ってくる。移ろいと幻の1楽章後半は優美で、弦楽セレナーデを彷彿させるが、同時に死や諦観といったものを連想させる。
ラフマニノフは「死の舞踏」の主題に魅了されていたが、チャイコフスキーにも似た痕跡が散見された。想像界を深堀りしていけば、生の領域などみじめなほど小さく、亡霊たちの世界がいかに活き活きとしたものかが実感できる。
フルパワーで全パートから濃厚なサウンドを引き出した最終楽章の途中で、山田さんが指揮台から降りてコンマスの小森谷巧さんのほうへ近づいていったことが、あまりに自然な振舞いに見えて、この瞬間を忘れずにいようと心に決めた。
日常で使う小さな心は、巨大な出来事の前では何度も壊れそうになってしまう。自分の心の器が小さいので溢れ出してしまい、結果語彙を探す前に涙や鼻水が出てしまう。チャイコフスキーは人生と創造にあまりに多くの魅惑を求め、それをやすやすと掴んでしまったためにこの世界では長く生きられなかった。
天才的な創造者は皆不整脈を抱えていて、危険を承知で自分に与えられた時間を生きる。
攻め攻めで、一歩も引かない強靭な指揮から、山田さんにトスカニーニの霊が乗り移っているようにも見えた。もちろんリハーサルではトスカニーニとは正反対だった思う。
「世界のヤマカズ」とはこういうことか…と感慨を新たにした今年最初の読響との共演。
真実を掘るには「裏の裏まで読む」ことと「もっとその先の延長線を視界に入れる」ことが大事なのだった。名曲の正体とは、才能をもって生まれてしまった者が付与された巨大な精神不安なのだと認識した。
編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2023年1月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。