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1月に3プログラムを予定されている読響×ヤマカズのロシア・プロの二日目。
袖から元気に飛び出してきた山田さんは、客席に向かって新年のあいさつをすると、颯爽とチャイコフスキー「眠りの森の美女」から「ワルツ」を振り始めた。バレエ取材でも何度もピットから流れてくるのを聴いているこの曲が、素晴らしくユニークな音色で聴こえてくるのに驚く。
オーケストラが高揚して「うっかり出してしまう裏声」のような明度の高い音だけで作られていて、歓喜の悲鳴のような音の持続がゴージャスなバレエ音楽になっていた。グロッケンシュピールのキラキラした音がスワロフスキークリスタルのように輝く。
こんな音楽とともに踊れたら、ダンサーも幸せなのではないか。『眠りの森の美女』はヤンソンスがよくアンコールでやっていたこともしんみりと思い出した。約5分。
楽しみにしていたポゴレリッチとのラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』は想定外の名演だった。20代の頃からポゴレリッチは指揮者泣かせのピアニストで、さまざまな指揮者の自伝で彼の風変りなソロが共演者たちの悩みの種であった様子が書かれている。
譜めくりをともなって現れたポゴレリッチは、落ち着いた雰囲気で厳かに冒頭の8つの鐘の音を弾いたが、大きな手で弾く鐘の音は分散和音ではなく、余裕の「全部和音鳴らし」。8つの音が単純にクレシェンドしていくのではなく、ある音ではいったん落ち込み、次の音では強打になるという彼らしい導入部だった。
その後の低音のアルペジオはほぼオーケストラの轟音にかき消されて、オケが「伴奏」としてやろうとしていないことが分かった。ある部分はオケが激しく主張し、ピアノなんか存在しない交響曲のような存在感をあらわす。
ポゴレリッチはいつものように、フレーズをいびつに分解して音楽にこびりついた文学性を解体するのだが、その「異化」が厳密な理念によるものなのか、即興的なものなのかは分からない。もちろん理念に裏づいている。が、聴き手には衝動的で気まぐれにも聞こえるときもある。
山田さんはポゴレリッチの「奇想」を先読みするかのように、オケからも奇抜な仕草を引き出す。テンポは不整脈のようになり、突然音が大きくなったり沈静化したりする。一楽章の第一主題をオケが引き継いだffのマエストーソの箇所は、野生動物が突然顔を表したような異形のラフマニノフで、今までこの旋律をこんなふうに聴いたことはなかった。長らく細い輪郭線で見ていた絵画が、急に太くはっきりとした輪郭で描かれた「変形」のようだった。
こうした反撃とも相撲ともいえるようなオケのレスポンスは、ポゴレリッチにとっても意表をつくものだっただろう。自分が「理念である」と主張してきた文体を、背景たるオケが即興のように擬態してきたのだから、ソリストとしてはきまりが悪かったはずだし、コンチェルト全体が自分自身になってしまった。
指揮者が勝ちでピアニストが負けという話ではないが、こんな奇想天外な賭けに出て、見事に一期一会の名演を完成させてしまう山田さんは「鬼才にもほどがある」と思った。ポゴレリッチをやり込めたのではなく「ポゴレリッチと同じ存在になる」ことで、妥協でも折衷案でもない、コンチェルトの新しい価値を作り出した。
3楽章の異様にゆっくりとした始まりも、別の曲のようで、録音で聴いても確実に異様だと思うが、これは世界中の人が聴くべき名演だと確信した。山田さんがポゴレリッチに「なれる」というのも、山田さんの個性のひとつである。
後半のチャイコフスキー『マンフレッド交響曲』(スヴェトラーノフ編)は圧巻で、すべての音がfffで鳴っていたような印象、筆圧が強く、破滅ぎりぎりのロマンティックな表現で、ぴーんと張った緊張感が破滅的カタルシスへと向かっていく。
台本となったバイロンの劇詩はゲーテの「ファウスト」に似ていて、チャイコフスキーはオペラのように標題シンフォニーを書き進めていくのだが、悔恨や苦悩をテーマにした音楽には、作曲家自身の罪悪感や無常観も投影されているようで、聴いていると皮膚に色々なものが刺さりこんでくる。