「ヒトラーの生家」の扱いでは、同生家の持ち主とオーストリア政府との間で法的な紛争があった。最終的には、政府は家主からヒトラーの生家を強制収用することを決定、関連法案を採決した。収用の法的要件は建物と「ヒトラーの生家」を結びつけてはならないことになっている。だから、建物の中にはヒトラーを想起させる如何なる展示エリアもない。建物の前に歴史に言及した記念石があるだけだ。政府は「ヒトラーの生家」がネオ・ナチ関係者の聖地となることを恐れている。戦後75年以上が過ぎたが、オーストリアはヒトラーに関連する事には依然、異常なほど神経を使っているわけだ。

ヒトラーが率いるナチス政権は1938年3月13日、母国オーストリアに戻り、首都ウィーンの英雄広場で凱旋演説をした。

オーストリアはその後、ドイツに併合され、ウィーン市は第3帝国の第2首都となり、ナチス・ドイツの戦争犯罪に深く関与し、欧州を次々と支配していった。同時に、欧州に住むユダヤ人600万人を強制収容所に送り、そこで殺害した。

オーストリアがヒトラーの戦争犯罪の共犯者だったことを正式に認めたのはフラニツキ―政権が誕生してからだ。同国は戦後、長い間、ナチス政権の犠牲国の立場をキープし、戦争責任を回避してきたが、フランツ・フラニツキー首相(任期1986年6月~96年3月)はイスラエルを訪問し、「オーストリアにもナチス・ドイツ軍の戦争犯罪の責任がある」と初めて認めた。そこまで到達するのに半世紀余りの月日を必要としたのだ(「ナチス政権との決別と『戦争責任』」2015年4月29日参考)。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年1月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。