ちょうどこのころ、九州では島津氏が全島制圧に近づいており、この状況を利用して家康は、甲信両国を手放しことなく秀吉と和解した。天下統一後には、北条旧領に移り、関東の主に出世した。家康の居城への好みは常に内陸都市だったが、大河川河口の港湾都市が大好きな秀吉の命令で江戸を居城にした。東京を関東の首都にした恩人は家康でなく秀吉だ。

秀吉の遺言により前田利家とともに秀頼を後見した。最初は利家に比べて不利な立場にあり、なんとか、自分の領分を守ろうと勝手に諸大名と縁組みなどしているうちに利家が死に、突然に天下一の実力者になった。

だが、会津の上杉景勝が関東を狙うのでないかと心配で圧力をかけたところ、石田三成が挙兵した。決して有利な状況になかったが、二、三位連合の弱みにつけ込み、また、「海道一の弓取り」といわれた戦い上手の面目に欠けて思いもかけぬ大勝利を収めた。

そうなれば、東日本だけでも支配を盤石にしようと関東と東海を譜代大名で固めた、関東の主にふさわしい征夷大将軍の肩書きも得た。そののちも望外の長生きをし、秀頼の成人後のことも心配になって、念のために少しずつ圧迫したところ、秀頼とその母である淀殿が抵抗したので、ついでに、滅ぼしてしまった。

そうなれば、徳川の天下を維持するためには、ともかく、何も変わらない平穏な世の中がよい。

宗派の争いは社会不安の下だから、布教活動は禁じる。世の中が便利になるとろくなことにはないから、信長や秀吉が廃止した関所をまた設け、東海道など三世紀にわたって一切といって良いほど改良しない。

年貢は米からだけ取ることにしたので、他の作物はできるだけ作らさないようにする。ともかく、何事に付けても、人民が何かに意欲的になると言うことが一番困るのだ。

海外となど付き合わなくて済むならそれに越したことはないといわんばかりに、孫の家光は鎖国してしまう。キリスト教の浸透が恐いから書籍の輸入も事実上しないという徹底ぶりだ。その結果はどうなったかと言えば、関ヶ原のころには世界でも最先進国のひとつだったものが、三世紀ののちには、まったくの発展途上国になって、危うく植民地にされかかったのである。

江戸時代が環境先進国だったなどというのも、冗談ではない。江戸時代は木を切りすぎて禿げ山だらけ洪水頻発で、ちょうど今日の北朝鮮みたいな惨状だった。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民俗資料館