今にして思えば希望的観測に引きずられ過ぎていたのではあるが、具体的なメリットもなしにプーチンが戦争を(それも非常に大規模な戦争を)はじめようとしているとは、当時の筆者にはどうにも信じられなかった。

厚顔無恥な凡百の学者やコメンテーター連中とは、人間の出来が違う。

大方の予想に反して、ウクライナが善戦できた理由について、こう指摘する。

48時間で消滅するはずだったウクライナがこれほどまでに持ち堪えられた要因は、この点(クラウゼヴィッツのいう「国民」の要素)にも求めることができよう。

私も、そう思う。上記のバーレン(丸括弧)内も引用である。クラウゼヴィッツのいう「国民」とは、以下を指す。

国家と自己を同一視して大量の犠牲を払う覚悟を持った「国民」という存在

果たして、そのような「国民」が、この国にいるのだろうか。大きな疑問を禁じえない。月刊「文藝春秋」(昨年六月特別号)に「ウクライナ義勇兵を考えた私」を「緊急寄稿」した芥川賞作家の砂川文次さん、そしてBSフジの番組で「私は戦う」と明言し、「自国が侵略された時に、国民が抵抗するのが、そんなに不思議ですか」(昨年3月16日放送)と、番組の男性MCに強く反発した小泉悠さんの両名以外、そうした「国民」を私は知らない。

同書は「おわりに」こう書いた。

この戦争は「どっちもどっち」と片づけられるものではない。

(中略)

ただ戦闘が停止されればそれで「解決」になるという態度は否定されねばならない。これはウクライナという国家が置かれた立場をめぐる道義的な議論にとどまらず、我が国が戦争に巻き込まれた場合(あるいは我が国周辺で戦争が発生した場合)にそのまま跳ね返ってきかねない問題だからである。それゆえに、日本としてはこの戦争を我が事として捉え、大国の侵略が成功したという事例を残さないように努力すべきではないか。

さらに1月4日に配信されたハフポスト日本版のインタビュー『ウクライナ戦争』を書いた小泉悠さんは警告する「我々はチェスのプレイヤーではない」でも、こう答えている。

もし仮に日本が他国から攻撃を受けた場合でも「もう抵抗やめなさいよ、相手の軍門に下れば戦闘が止まるんだから」「世界経済にも迷惑かけるからやめなさい」みたいなことを他国から言われても、おかしくないと思うんですね。でも私はそうは言われたくありません。その意味で、今この場で、我々がウクライナを支えておくということに意味があると思っています。そういう意味で、この戦争は他人ごとではないという思いを強く持っているんです。

まさに、そのとおり。僭越ながら私も同じ思いで拙著を書いた。月刊「正論」にも書いたが、これだけは繰り返しをお許しいただきたい。

本書こそ「ブックオブザイヤー2022大賞」に相応しい。