神社には「鎮守の杜」の言葉があるように、木立がつきもの。その土地に古くからある森に神が鎮まっている、として社殿を作る場合もありますが、新しい場所に神社を造営する際は、植林して社殿の周りに木立を形成します。

 日本で最も多くの初詣参拝者を迎える東京の明治神宮。境内は武蔵野の面影を感じさせるような森林に覆われていますが、これも人工林。およそ150年かけて「自然林」になるよう、計算して造営が進行中なのです。

 神社と森林との関係は、大きな木に神性を見出す大樹信仰と同時に、うっそうとした山や森林に神々が鎮まっているという古神道的な考えから。神社の境内は木立に覆われ、遠くから社殿が見えないようにして「神聖な場所」を演出します。

■ 明治神宮の場所には何があった?

 いかにも武蔵野の森がそのまま残っているような明治神宮の杜ですが、江戸時代には敷地の一部に熊本藩加藤家の下屋敷(改易後は彦根藩井伊家下屋敷)がありました。現在も明治神宮境内には熊本藩初代藩主・加藤清正の頃に掘られたとされる井戸(清水)が残っており、現在は「清正井」としてパワースポットとなっています。

「自然」を目指す究極の人工林と演出されたイチョウ並木 明治神宮2つの杜
(画像=『おたくま経済新聞』より 引用)

 周辺にも代々木八幡神社を除けば目立った森林はなく、1本の大木が目印になるような開けた土地でした。この木は代替わりを繰り返してずっとそこにある、という意味で「代々木(よよぎ)」と呼ばれ、やがてこの一帯の地名(武蔵国豊島郡代々木村)となっていきます。

「自然」を目指す究極の人工林と演出されたイチョウ並木 明治神宮2つの杜
(画像=『おたくま経済新聞』より 引用)

 明治維新後、彦根藩井伊家下屋敷は1874年、皇室の御料地(南豊島御料地)となりました。ここには体の弱かった皇后(昭憲皇太后)のため、それまであった大名庭園を改修し、体力づくりのウォーキングができる回遊式庭園が造られ、現在も「御苑」として残されています。

■ 明治神宮造営から始まる「杜づくり」

 1912年7月30日、明治天皇の崩御により皇太子の嘉仁親王(大正天皇)が践祚して明治が終わります。この直後から、明治天皇を祭神とした神社を造営しようという構想があちこちで生まれました。

 1913年12月、勅令により内務省の外局として「神社奉祀調査会」が発足。調査会は1914年1月の会合で、神社号を「神宮」とし「官幣大社」列格、鎮座地を「東京府下」と決定しました。

 有力候補とされたのは、明治天皇の作らせた御苑のある代々木(南豊島御料地)と、大喪が営まれた青山練兵場。その後、代々木を社殿などの内苑、青山を都市公園的な性格を持つ外苑として造営することに決まりました。

 1915年には神社奉祀調査会に代わって造営の実務を担う明治神宮造営局が発足し、代々木の地で10月7日に地鎮祭が執り行われ、翌1916年3月25日の起工式にあたる釿始祭(ちょうなはじめさい)で造営がスタート。聖徳記念絵画館を中心施設とし、野球場や競技場などを併設した外苑の設計も始まります。

 各地の青年団からの勤労奉仕も受け、明治神宮は1920年11月1日に鎮座祭を迎え、その日の午後から一般の参拝を受け付けました。この日の一般参拝者は50万人を超えたとされ、今の初詣人気を思わせる数字です。

「自然」を目指す究極の人工林と演出されたイチョウ並木 明治神宮2つの杜
(画像=『おたくま経済新聞』より 引用)

 建物は完成しましたが、全国からおよそ10万本にものぼる献木は植林したばかり。この木々が明治神宮を守る「永遠の杜」にするにはどうしたらいいのか、造営局で考えた人々がいました。