明けましておめでとうございます。数多くの読者様、そして数多くの辛口コメントを書き込んでくださる皆様、今年もよろしくご指導のほど、お願いします。

さて、2023年を迎えて思うことですが、私が一番に掲げたいのは人間とテクノロジーの共生ができるのか、そして人間はどこまで自律的に賢く行動できるのか、という点です。意外と思われるでしょう。また、抽象的でわかりにくいと思います。

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我々の社会は既にテクノロジーに大いに侵略されています。スマホがないと1時間も我慢できない人が増えたように、それら「端末」がないと日々の生活は成り立たなくなりました。一方で、知らぬ間にそれに頼ることで人間が本来持ちうる能力が錆つきました。昔の船乗りは空を見て天気を予想しました。今は人工衛星の情報を解析したものがスマホを通じてゲットできます。苦労して得た人間の知恵、知識をテクノロジーは一瞬にして凌駕しました。しかし、我々はテクノロジーに使われるのではなく、うまく利用するというスタンスを忘れてはいけません。

一昔前の学生運動は何故あそこまで熱いものだったのだろうか、スポーツと言えば野球だったのはなぜか、子供は「カレー ハンバーグ スパゲティ」がどうして好きだったか、美空ひばりや舟木一夫のような国民的歌手が生まれたのはなぜか、など考えると、あらゆるジャンルに於いて我々は世論、流行、同調、限られた情報、そして少ない選択肢が根底にあったように思えます。

ところが90年代頃から「軽薄短小」「個性の時代」が強まり、人々の行動は一気に多様化しバラバラになります。世の中への関心はより薄く、自分へのこだわりが強くなります。昔は友人がやっていれば「俺も」「私も」と一緒にやったものが「お前がそれなら俺はこれ」になります。音楽は好みが分散し、食のフュージョン化も進みます。人々は枠から飛び出し、全身鏡に自分を映し出すナルシストの世界に浸ります。

2000年代になるとIT技術が個性を促進し、人々をより深みに導き、結果として他人との距離感が生まれます。これが今、我々が直面している世の中の分断です。一見すると趣味、興味、共感で繋がっているように見えるけれど実はそれはごく一部の同調に限定され、残りの99%は別腹です。SNSの罠ともいえます。

この呪縛から解放され、自立できる人は良いのですが、多くはIT技術で我々は操作されるようになります。目の前の情報は興味のありそうなものだけが並び、人は判断せず、スマホがしっかりチェックしてくれます。私のiPhoneからはフィットネスアプリが「昨日はムーブ記録を達成できませんでした」と表示し、日中は「その調子で頑張ってください」と監視されます。