「個人の尊厳」と言われることが多いが、条文に忠実に従えば「個人の尊重」と表現すべきだろう。 家でも会社でもなく、われわれ個々人の尊重が憲法の最大の価値だ。

明治憲法時代の家制度では、家長が認めないと結婚もできなかった。

そのような制約からすべて解放し、国民一人一人が個人として尊重されることに最大の価値を置いている。

「個人の尊重」に最大の価値を置く憲法を最高法規として、日本の法体系はつくられている。

とはいえ、「個人の尊重」という漠然とした概念だけでは実効性に乏しい。

そこで、憲法では「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」という三大原理を規定して「個人の尊重」が図られるようにしている。

「国民主権」がダイレクトに規定されているのは憲法1条で「天皇は日本国の象徴であって、この地位は主権の存する国民の総意に基づく」と規定されている。

「主権の存する国民」と書かれているように、「主権」は国民にある。

この場合の「主権」は、国政に対する最終的決定権の意味だ。

国政に対する最終的決定権を国民が有していることを「国民主権」という。

明治憲法では天皇に主権があったが、現行憲法は主権が国民に存することとなった。(一種の「革命」と考える説も有力だが・・・)

「基本的人権の尊重」は、憲法11条以下に人権規定が列挙されている。

憲法11条は「国民は全ての基本的人権の共有を妨げられない」と規定している。

基本的人権が保障されているので、「表現の自由」が保障されたり、適正な手続なくして身柄を拘束されることはない。

このような基本的人権の保障があるからこそ「個人の尊重」が守られる。

最期の「平和主義」は、憲法前文と憲法9条に規定されている。

「平和主義」がなぜ「個人の尊重」にとって重要かというのは、逆を考えればわかりやすい。

戦争状態になって徴兵されて戦死するなどすれば、個々人の尊重は到底実現できない。

ただ、「平和主義」という原理が、自衛隊の違憲性や米軍基地の存在が違憲であるということに結びつくわけでは決してない。

冷戦時代の米ソのパワーバランスによって世界的な対戦が避けられたように、自衛力や米軍の存在によって日本国民の平和的生活が守られているという側面も否定できない。

争いのある部分だが、これはあくまで私個人の考えだ。

編集部より:この記事は弁護士、荘司雅彦氏のブログ「荘司雅彦の最終弁論」2022年12月26日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は荘司氏のブログをご覧ください。