橋下が08年に大阪府知事に当選したときには、実質的に自民党が支援していた。ところが、橋下は当選すると反原発など独自の改革色を強く出したので、自民党府会議員団は抵抗勢力化した。翌09年、松井一郎知事らが新会派「自民党・維新の会」を結成し、10年には「大阪維新の会大阪府議会議員団」として政治団体の届け出もした。彼らが地方選で無所属候補を応援したので、自民党は彼らに離党勧告をする。民主党政権(09~12年)への移行期だけに必然でもあった。

しかし、大阪維新の会は11年の統一地方選で府議会では単独過半数、大阪市議会でも第1党になった。このころ、民主党政権は支持を急速に失い、橋下総理待望論まで出ていたので、総選挙に備えて12年には「日本維新の会」が結成され、石原慎太郎の「太陽の党」も合流し、第2次安倍内閣が誕生した総選挙で54議席を獲得する(最初は石原代表、次いで橋下も共同代表)。

翌13年の都議選と参議院選挙では安倍人気のあおりで惨敗。橋下らの関心は大阪都構想の実現だったので、国政で保守色が強め過ぎるのを嫌い、石原系との対立が顕在化し、石原系が「次世代の党」を結成し分党。橋下は江田憲司の「結いの党」と合流して「維新の党」となる(本部は大阪)。

この党は総選挙で善戦したものの議席を減らし、やがて江田が単独代表となった。さらに代表は松野頼久に交代し、松野は民主党と合同しようとして大阪サイドと対立した。最後は、印鑑や資金、代表の地位の合法性、党員資格(小沢一郎のアドバイスで東京派が大量の党員登録)、そして名称をめぐって泥仕合となったが、16年には解党して「民進党」と「おおさか維新の会」になった。

さらに同年、「おおさか維新の会」は「日本維新の会」に戻って現在に至る。日本維新の会は党から大阪派を追い出そうとしたのだが、「維新」の看板を元祖の大阪派に使わせないというのは、世論も不自然だと思ったので、大阪派が粘り勝ちした。その後の日本維新の会では地方議員の権限を強くするなど、大阪の主導権を確保した。

21年の総選挙で公示前の11議席から41議席を獲得し、22年の参議院選挙では非改選議席と合わせて21議席を獲得し、21年には兵庫県知事選挙でも勝利を収めている。

そして、22年には松井代表にかわる新しい代表に馬場伸幸が選ばれた。