戦後、大阪府では官僚出身の赤間文三(のちに法相)が公選初代知事となった(在任期間1947~59年)赤間のあとは、防衛庁長官も経験した左藤義詮(在任59~71年)で、70年の大阪万博を成功させる。当時の大阪市長は、革新に推された温和な中馬馨で、バランスの取れたコンビだった。
万博翌年に行われた知事選挙では、社共共闘で立った地味な憲法学者の黒田了一が番狂わせの勝利を収めた(在任71~79年)。大阪万博は大成功に終わったのだが、府民にお祭りや経済拡大路線の疲れが目立ち、東京オリンピックのあとの都知事選挙で革新都政が誕生したのと同じ状況である。黒田の2期目には、共産党に傾斜した黒田を社会党なども支持せず、共産党単独の支持を受けた黒田と、自民系、中道系の三つどもえとなったが黒田が圧勝する。しかし、議会運営に無理があって実績は上がらなかった。
岸昌(在任79~91年)は自治省官房長を務め、黒田府政の初期に副知事に就任したが、黒田と衝突して辞任。3選を目指した黒田に対して相乗り候補として立候補し、黒田に大差を付けて勝利した。3期を務めたが、強力になり過ぎて嫌われ、厚生省から大阪府に移籍し副知事になっていた中川和雄が就任した(在任91~95年)。しかし、政治資金問題での不手際もあって1期のみで退任し、府政への不信感の高まりでタレント議員だった横山ノックが当選した(在任95~99年)。だが、再選時の選挙運動中のセクハラ事件で、任期途中辞職。
経済界と連合が共に推せる候補として、大阪通産局の幹部だった太田房江が浮上し全国初の女性知事になった(在任2000~08年)。
トップセールス、財政再建、犯罪対策などに成功したが、まっとうであるがゆえに、小池百合子のような形でのマスコミ受けはなかった。
そこで登場したのが、橋下徹だった。自公の推薦を受けたら勝てそうもなかったので、自公から実質的な支持を受けつつも推薦は断り、ほとんど応援演説も受けずに一人で街頭演説を繰り返すだけで勝利した(在任08~11年)。
「日本維新の会」の淵源は、11年に結成された地域政党「大阪維新の会」である。この先駆となったのは、06年に滋賀県知事選挙で勝利した嘉田由紀子が08年の統一地方選挙へ向けて結成した地域政党「対話でつなごう滋賀の会」だった。無党派の支持層を糾合して、県議会において抵抗勢力化していた自民党の過半数を崩して、民主党などと県政与党を構成することに成功した。