死の直前まで公務に従事
女王の異変の兆候は死の少し前から出ていた。
9月5日に与党・保守党の党首として選ばれたリズ・トラス氏は、通常であればロンドンのバッキンガム宮殿で女王と接見し、新政権の発足を依頼されるはずだった。しかし、スコットランド・バルモラル城に滞在していた女王は健康上の理由からロンドンまで行くことができないという。そこで接見はバルモラル城で行われることになった。前代未聞の事態と言ってもよかった。
女王は21歳の誕生日に自分の生涯を英国民と英国に捧げると宣言し、25歳で女王になってから、その言葉を忠実に実行した。伝統を重視し、黙々と公務にいそしんだ女王がバッキンガム宮殿まで行けないというのは相当の理由があるはずだった。
6日、トラス氏を待つ女王の姿が公開された。暖炉の前でにこやかに微笑む女王はかくしゃくとしていた。しかし、その2日後、体調が悪化し、8日午後3時過ぎ、女王は亡くなった。享年96歳。死因は「老衰」と言われている。亡くなる2日前まで公務を行った女王は、まさに「一生を英国民と英国のために」尽くした人物だった。
8日昼過ぎにはメディアは死去に備えて準備を始めていたと推測されている。
午後4時半、議会で答弁をしていたトラス首相(当時)とスターマー影の首相に女王死去の連絡が入った。王室が午後6時半に正式に発表し、BBCでは夕方のニュース番組のキャスター、ヒュー・エドワーズが訃報を伝えた。発表前から黒の背広姿だったが、発表後に濃紺のネクタイを黒に変えた。
BBCは通常の番組を中止し、特別番組に切り替えた。生前の女王を振り返る番組、スタジオにコメンテーターを呼んで逸話を聞く番組などで時間を埋めた。
新聞各紙のウェブサイトは、一時、記事の背景を黒にして追悼の意を示した。検索エンジン、グーグルは「Google」という文字を灰色に変えた。
バッキンガム宮殿やウィンザー城、バルモラル城に追悼の花を持った人々が集まりだした。

バッキンガム宮殿前に置かれた花束(筆者撮影)

女王の死去をトップにした各紙
翌日9日付のすべての主要新聞は女王の死去をトップにした。ニュースサイト「プレス・ガゼット」によれば、全国紙10紙で女王の人生やその死に対する反応に費やした頁は合計426になったという。
無料紙メトロは1面に王冠をかぶり、印象的な花の形のイヤリングを付けた若い女王がこちらを向く「最も目を引く」(プレス・ガゼット)写真を使った。
大衆紙サンは38頁の特集を組むとともに36頁の小冊子を付けた。
高級紙タイムズはラッピング紙面を付け、右面に1953年の戴冠式の際の女王の写真、左側には黒地の背景に最近の女王の顔写真を入れた。ラッピング紙面を取ると、1面を黒枠で囲み、王室が提供した女王の最近のモノクロ写真を中心に置いている。
高級紙デイリー・テレグラフ、大衆紙デイリー・エクスプレスも同じ写真を使い、黒を基調とした。
ピンク色の紙面で知られる高級経済紙フィナンシャル・タイムズは、1971年の議会開会式の際の笑顔の女王の姿を1面に大きく掲載した。
最も女王の死とその衝撃に大きく紙面を割いたのは大衆紙デイリー・メールで、86頁となった。
興味深いのは通常は王室に批判的な左派系新聞も含めて、どの新聞も女王への敬意を示す作りになっていた点だ。
1面の見出しを拾ってみると、「女王様、私たちはあなたを愛していました」(サン)、「悲しみとは愛することの代価です」(生前の女王の発言を掲載、テレグラフ)、「私たちの愛する女王が亡くなった」(デイリー・エクスプレス)、「ありがとう」(左派系大衆紙デイリー・ミラー)。左派系高級紙ガーディアンは、女王の写真に「女王エリザベス2世 1926-2022」とだけ記した。1926年は女王が生まれた年である。午後には売り切れとなる新聞が続出した。