朱鎔基は20世紀の最後の四半世紀において、EUを創立したジャック・ドロールと並ぶ偉人で、彼は日本のどの政治家よりはるかに市場経済のメリットと限界を理解しており、日本の首相にしたいと思ったくらいだ。

江沢民も市場経済をよく理解していた。あるとき、次官クラスの人に、「彼らは社会主義中国の指導者なのに、どうして市場経済のついての知識を得たのか」と聞いたら、「江沢民は新中国成立前にサラリーマンとして米国系企業で働いていたし、朱鎔基も建国時は大学生。つまり、彼らは市場経済の中で育った人たちです。改革開放の開始がもう少し遅く、市場経済を経験していない世代が指導者たちになっていたら困難が生じたでしょう」といっていた。

対日関係は、せっかく天安門事件の処理において欧米よりは、改革開放路線の維持のために中国の立場に配慮し、天皇陛下訪中も実現したのに、混乱が収まると米国に先の戦争で米中が同盟国だったことを思い出すように働きかけるなどしたのは、遺憾だった。

これは、先に書いた出自がゆえに親日派と批判されることを避けたかったのも理由かもしれない。

90年代から30年間、つまり平成年間に中国のGDPは、日本の8分の1から日本の3倍以上にまで成長した。この時代の前半には、政治制度の民主化は進展しなかったが、言論などの自由化はかなり進んだ。

21世紀初頭の胡錦濤の時代になると、経済はますます発展したが、実体を伴わないバブル的な成長だったし、指導者層だけではなく、中堅幹部まで利権や役得を求め、胡錦濤はそれを体制安定のため容認した。

日本では「腐敗」といっても、経済全体に悪影響を与えるほどにはならないが、中国では腐敗が国富を浪費し、国を滅ぼしてきた歴史があるから、12年に党総書記になった習近平が社会主義回帰を唱え、貧困層や地方の生活向上に重点を置いたのにも一理あった。

ただ、引き締め策の不満解消のために、毛沢東の「創国」、鄧小平の「富国」、習近平の「強国」などといって国威発揚路線を採ったことが問題で、世界から批判を浴びることになる。「一帯一路」構想や、「太平洋は米中二大国にとって十分広い」といった言い方は、中央アジアや西太平洋を中国の勢力圏にしたいととられるようになって混迷を深めている。

埋葬された江沢民氏の遺体中国共产党新闻网より