中国の江沢民元国家主席が亡くなった。天安門事件のこともあって、どういう報道がされるかと思ったが、習近平が中国の国内外で嫌われ者になっている状況下なので、意外といっていいほど好意的な反応が多いようだ。
中国との関係については、『日本の政治「解体新書」: 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書 )でも一章を割いているが、江沢民時代のはじめに、通商産業省の中国担当課長などをしていたので、思い出は色々ある。
江沢民は中国のトップである三つのポストを兼ねたが。任期は微妙に違う。
共産党中央委員会総書記は1989年6月24日-2002年11月15日、国家主席は1993年3月27日-2003年3月15日、党中央軍事委員会主席は1989年11月9日-2004年9月19日、中国中央軍事委員会主席は1990年3月19日-2005年3月8日である。
最初は鄧小平が存命だったが、1997年に死んでからは、文字通り最高指導者だった。
その出自については十分に公開されていないが、1943年に汪兆銘政権の首都だった南京で、南京中央大学に入学しており、いわば親日派の系譜に属するようで、父親は南京政府の高官だったともいう。

江沢民元国家主席 中国共产党新闻网より
叔父に共産党員がいて、その養子となってロンダリングしたようだが(長男の嫡男が叔父の養子になるのは不自然である)、蒋介石が北洋政権や汪兆銘政権の関係者を排除したので、子孫たちが共産党の方についたというケースは珍しくないようだ。
ただ、この親日出自が、ことさら日本に対して厳しい態度を取る根っこにあったことは、韓国の朴槿恵大統領と同じだ。
中国は朝鮮戦争(48年)の余波で欧米との国交樹立が遅れた。60年代に劉少奇らが部分的な自由化を試みたが、毛沢東は文化大革命で反撃する。文革が沈静化しつつある中で国連加盟(71年)、日米両国との国交が実現し(72年)、78年からは鄧小平による改革開放が始まる。
しかし、民主化要求や急速過ぎる市場化に伴う混乱が広まる中、天安門事件(89年)を機に、民主化は後回しにして、経済は大胆に市場経済を取り入れる方針が採られた。
鄧小平に対して批判的な人が多いが、当時の状況をリアルタイムで経験した立場からすると、バブリーな経済政策を展開していた趙紫陽を保守派からの改革開放批判を招くと心配した鄧小平が趙紫陽を制御しようとしたのに対して、趙紫陽が学生らの民主化運動と組んで反撃したので鄧小平に落ち度はないと思う。
90年代の中国は、天安門事変を武力弾圧で乗り切った鄧小平の方針を引き継いだ江沢民による権威主義的な統治と、朱鎔基首相による賢明に統制された市場経済の組み合わせで、大経済発展を始めた。
私は天安門事件のころ、通商産業省工業技術院の国際問題担当課長として中国科学院との提携を進めていたし、朱鎔基が副首相として活躍する93年前後には中国担当課長だったから、朱鎔基自身と日本政府首脳などの会談に参加したり、その直属の部下と議論を繰り返したりした(朱鎔基夫人と食事をするという機会もあった)。