戦国時代ファンにはお馴染みの史料に、『甲陽軍鑑』(以下『軍鑑』と略す)という書物がある。同書は「武田信玄を中心とする甲州武士の事績・心構え・理想を述べた書物」(『国史大辞典』)である。天正3年(1575)の長篠合戦の大敗に危機感をおぼえた武田氏の老臣、春日虎綱(高坂弾正)の口述を、虎綱に仕えた猿楽師の大蔵彦十郎と虎綱の甥である春日惣次郎が筆記し、武田勝頼の側近であった跡部勝資と長坂釣閑斎に送ったものが原本とされる。

春日虎綱はその後も天正6年に死去するまで『軍鑑』を書き続け、彼の死後は大蔵彦十郎と春日惣次郎が天正14年まで書き継いでいる。私たちが現在目にしている『軍鑑』は、武田家臣の子孫で甲州流軍学の創始者である小幡景憲が傷んだ原本を入手し、元和7年(1621)に編者として校訂、刊行したものである。

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この『軍鑑』は甲州流軍学の聖典として重んじられるに留まらず、庶民層にまで広がり、江戸時代を通じたロングセラーとなった。ところが、近代になると評価が一変する。歴史学者の田中義成が1891年に「甲陽軍鑑考」という論文を発表し、『軍鑑』は偽書であると断じたのである。

田中は『軍鑑』の記述と、戦国時代の古文書・古記録のそれとの矛盾点が多いことを指摘した。そしてこの事実を根拠に、高坂弾正の名を騙って小幡景憲が偽作した書と主張した。この『軍鑑』偽書説は、歴史学界で長らく有力視された。

ところが近年、同書の史料的価値が再認識されつつある。国語学者の酒井憲二氏は、『軍鑑』の版本・写本を網羅的に蒐集し、文献学的・書誌学的手法で整理することで、原本に最も近い最古の古写本を確定した。その成果は、1995年に『甲陽軍鑑大成 研究篇』としてまとめられた。これによれば、『軍鑑』には室町時代の古語がふんだんに使用されており、江戸時代初期の人間が著述できるものではないという。歴史学者の黒田日出男氏は酒井説に賛意を示し、『軍鑑』を戦国武将が書き記した同時代の戦記として、『信長公記』と比べても遜色ない一級史料として評価している。

また、従来は『軍鑑』でしか確認できず、同書が創作した架空の人物という説すらあった山本勘助に関する史料も次々と発見された(市川文書・真下家所蔵文書・沼津山本家文書)。かくして『甲陽軍鑑』は真書であることが実証された。

ところで推理小説家の井沢元彦氏は、自分は酒井氏よりも先に『軍鑑』が真書であると指摘したのに、歴史学界は無視してきた、と非難している。学界が井沢氏の主張に耳を傾けていたら「酒井論文を待つまでもなく突破口は開けたはずである」というのだ(『逆説の日本史』第25巻、小学館、2020年)。

これに対して私は、「井沢氏は『繰り返し様々な著書に書いてきた』と主張するが、具体的な書名を挙げていない。酒井説より早いと己の炯眼を誇るなら、いつ自説を発表したのか明確にすべきだ」という趣旨の批判を加えた(『ユリイカ』2020年12月号)。