黒坂岳央です。

筆者が考える人間関係における真理に「人間関係は全員が選ぶ側である」というものだ。「いやいや、選ぶ側、選ばれる側にわかれるではないか?」という反論は当然に来るだろう。しかし、そこを踏まえて考えても本質的には「全員が選ぶ側に立っているという発想を持っても良い」、そのように自分は思っている。筆者自身、この発想を持ってから人間関係において問題が生じた記憶はない。

この話はなにかの統計データなどを拠り所にしたものではなく、あくまで筆者の個人的感覚値である。できるだけ、客観的視点で事例を取り上げながら論考したい。

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「選ぶ側、選ばれる側」は本当に正しいのか?

婚活などでは「市場には選ぶ側、選ばれる側の人材がいる。本来は相手から選ばれる側に立つべきなのに、選り好みをするとうまくいかない」という話をよく聞く。

低俗なゴシップ消費されるようなカテゴリの話題において、「自分はこういう人と結婚したいがなかなか成立しない」という嘆きに対し、「身の程を知れ。あなたにそのような市場価値はない」という嘲笑が寄せられる場面を見ることもある。

しかし、この概念は本当に正しいのだろうか?

ここで婚活市場において優位性のある男性がいたとする。顔はイケメン、高収入で安定性抜群の企業に努めてトークも上手。女性のエスコートも弁えているという漫画の登場人物のような人材であるという仮定だ。この場合はいわゆる「選ぶ側」にカテゴライズされるのが一般的だろう。

だが、そんな男性であっても、絶対的強者ではなく、あくまで相対的強者でしかないと思うのだ。現実的には、その男性であっても市場の女性全員を自由に選べるわけではない。これは冷静に考えれば当たり前である。「確かにハイスペックだが、自分の好みではない」と女性から言われたら成立しない。「選ぶ側、選ばれる側」という概念は、あくまで市場ニーズにおける相対的強者としての意味合いで便宜的に使われているカテゴリにすぎない。

人間関係はスペック勝負だけでは決まらない。相手の雰囲気や価値観、性格など、好みのゆらぎという実に人間臭さを感じるファクターで成否を決定しうる。AIのようにロジカル一辺倒では成立しないような、美女と野獣は現実にあり得るのだ。

故に筆者は思う。誰だって付き合う相手は選んで良い。それが市場価値という一要素で見た場合に、決して魅力的に映らないケースであっても、だ。「自分も相手を選んでいいが、相手からも自分を選びたくなるような人物であれ」というのが理想的な発想ではないだろうか?