マインドコントロールされたといわれるトランプ支持派の選挙結果否定も困ったものだが、仮にトランプが勝った場合には、マインドコントロールされた結果とかリベラル派も言い出しかねなかった。日本でも安倍元首相が選挙に何度勝っても左派・リベラル派は、それが民意だと認めなかった。
在来宗教と新興宗教の差別は許されないもうひとつ問題なのは、いわゆる在来宗教と新興宗教のあいだの差別である。この問題について、『日本の政治「解体新書」: 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)でも論じたのだが、テレビドラマや文化系番組でも新興宗教は厳しく差別されており、キリスト教はひどく優遇されている。
在来仏教の葬式は出てくるが、それ以外はタブーだというのはどうなのか。僧侶や神主、牧師は出てくるのに、天理教の信者や創価学会の指導者が登場人物になるドラマはない。
ミッション系の同志社大学の創立者の妻がNHK大河ドラマの主人公になっていいなら、創価大学や天理大学の創立者やその関係者が主人公になれない理由はないはずだ。神道やキリスト教の結婚式はよく出てくるが、他はだめらしい。
私は何か変だと思う。すべての宗教は信者数などに比例して平等に扱われるべきだ(ちなみに、旧統一教会は数万以下だからその数字どおりに扱えばいい)。
また、ある種の宗教を監視対象にするとか規制をすべきかどうかは、客観的な基準によるべきだ。西欧ではなんとなく、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教、ユダヤ教をもって自分たちの文明圏の宗教として特別扱いをしてきた。
それに加えて、1970年代からはイスラム教もそれに準じた地位を与えられるようになった。有名なフランスのカルト宗教監視制度でも、カトリック、プロテスタント、ギリシャ正教、ユダヤ教、イスラム教に対しては緩くするという合意があり、アメリカやアジアから来た新興宗教が対象になっていた。
ところが、結局、西欧社会をゆるがす脅威を与えているのはイスラム教である。ここ10年くらいは、かなり露骨にイスラム過激主義への規制が行われているし、それがゆがんだ形で現れたのが、FIFAワールド・カップでのドイツ選手団のデモストレーションだった。
旧統一教会についても、あれはキリスト教とはいえないと特別扱いしているが、どう考えても類似のセクトはいろいろあり、カトリックやプロテスタントもかなり特異な発展をしている半島風キリスト教のひとつの形で、珍しいのは日本の保守派にすり寄って成功したと言うだけだ。宗教としての問題性ではおかしな困ったものがほかにもある。そのあたりも、新著では論じている。
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