「宗教二世問題」が問題になっている。それぞれの人が自分でいろんな定義付けしているのだろうが、一般的な受け止め方としては、新興宗教の信者が子どもを入信させたり、お祈りをさせたり、宗教教育をすること全体に対する否定的な受け取り方を誘発しているように見える。
私は、それを過剰に論じるのはまったくおかしいと思う。ファシストや共産主義者は、親でなく教師に子供の教育の主導権を与えようとしたが、それの延長のように見える。
そのあたりを、新刊『日本の政治「解体新書」: 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)でも論じ、また、Facebookでも書いたところ反響が大きかったので紹介したい。
子どもの教育は年齢によってももちろん違うが、親にそれなりの主導権があるのは当然。宗教教育をする権利もあるべきだ。それがないなら宗教は成立しがたい。
キリスト教では幼児の時に洗礼を受けさせるし、毎週、礼拝に連れて行き神に祈らせ、ミッション系の学校に入れる。初参りに神社に行き、仏壇や神棚に参らせたり、村祭りに参加させるのも、子どもの意思とかは関係ない。

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それに、親の強い影響を問題にするなら別に宗教に限るべきでない。朝日新聞を子供に読ませる親も同じように問題だとかいうことになるのだろうか。いま世界的にもいちばん心配なのは、かつてのグレダさんのような環境問題の子ども戦士のことで、まるで少年十字軍のようだ。
テレビを家に置かないとか、スマホを買い与えない親も、さらにマクドナルドのハンバーガーを子供に与えないとか、ヴィーガンの価値観を押しつけることも支配的で過度な力を振るうということになるかもしれない。偏った食事は危険だ。輸血を拒否するとか、子どもにワクチンを打たせないなども、私は子どもに対する虐待だと思うが、これは意見が分かれるだろう。
子どもに宗教であれ、特異な健康観とか価値観であれ、それを親がどこまで押しつけることができるかは、永遠に議論を呼ぶ課題だ。子どもの学校を選択することについて親と子の意見が対立したらどうするかでも誰もが納得する回答などない。
ただ、親が子どもを自分の信じる宗教に従って教育したり、お祈りしたりすることを否定したら、宗教はなりたたないし、信教の自由は空洞化することは間違いない。
マインドコントロールというのも、客観的な基準として使うべき言葉ではない。うっかりすると、選挙の結果もマインドコントロールされたものとして否定されてしまいかねない。