改進党は重光葵、松村謙三、三木武夫らが中心になっていた党だ。

55年体制のもとでの最初の総選挙(1958年)では、追加公認を含めると共産党の一議席以外は両党で占めた。

その後、社会党は民社、公明、共産に食われて長期低落傾向が続き、土井たか子委員長の時代の時代に消費税引き上げへの反対とマドンナ・ブームで盛り返したが、線香花火で終わった。

野党では、細川政権瓦解後、新進党が結成され1996年の総選挙で野党第一党となった。しかし、旧公明党の離脱で解党し、小沢一郎の自由党などが生まれた。一方、新党さきがけの鳩山由起夫や菅直人は(第1次)民主党を結成し第二党となり、社会党議員の大部分や事務局の多くがここに移籍する一方、排除の論理で排斥された村山前首相らは社民党にとどまった。

そののち、小渕政権に加わっていた自由党は、自民党との新党設立が拒否されたので連立を解消し、(旧第1次)民主党と(第2次)民主党を構成した。さらに、維新の党の反大阪派とともに民進党を結成したが、蓮舫代表の二重国籍問題の勃発で出鼻をくじかれ低迷した。そこで、小池百合子の希望の党に合流を試みたが、排除された枝野幸男らが立憲民主党を結成し、これが総選挙で第二党になって現在に至っている。

本書『日本の政治「解体新書」』では、その野党第一党の党首の経歴なども分析している。