独眼竜苦難の戦い「人取橋の戦い」

続いては独眼竜で有名な伊達政宗が戦った「人取橋の戦い」です。
父親の伊達輝宗から家督を譲られた政宗ですが、輝宗は周辺勢力との争いの中で拉致され殺害されてしまいます。
この惨劇に父の弔い合戦に燃える政宗は、素早く軍勢を集め父の仇である二本松氏の籠る二本松城を攻撃。二本松氏も政宗に対抗すべく諸勢力に救援を依頼。これにより常陸の佐竹氏、会津の蘆名氏をはじめとした諸勢力による二本松救援連合軍が誕生。政宗討伐のため北進を開始しました。
政宗もこれに対応して自ら迎撃部隊を率いて向かいました。
壊滅寸前の政宗が見たものは

時は天正13年(1586年)11月17日、両者は福島県本宮市を流れる瀬戸川にかかる人取橋付近で対峙。
戦力差は伊達政宗軍7,000に対し連合軍およそ30,000。圧倒的な戦力差で戦いは終始連合軍が圧倒します。
物量差の勢いに政宗軍の武将達も踏みとどまろうと奮戦しますが、重臣の鬼庭左月斎が討ち取られ、政宗の本陣にまで連合軍が突入。政宗自身も体に矢玉を受けつつも、かろうじて拠点の本宮城に引き返す。戦いはこのまま決するかに見えました。
しかし、この戦いの裏で連合軍の主力格でもある佐竹軍に異変が生じます。佐竹家の家臣が部下に刺殺されるという事件が発生し、さらに本国に北条家や里見家が侵攻するという連絡が陣中に届き、佐竹軍は撤退してしまいます。常陸を本拠にしている佐竹家はその地理的要因により、奥州だけでなく関東の勢力争いにも対処しなければならない故の事態だったと思われます。
壊滅寸前まで追い込まれた政宗が見たものは、撤退してもぬけの殻になった敵陣でした。この結果にさぞかし胸を撫で下ろしたのではないでしょうか。
その後の顛末は佐竹氏は関東の戦いが激化して伊達氏に関与する暇がなくなり、佐竹氏の支援が望めなくなった二本松氏は政宗に降伏。二本松城を政宗に明け渡し、政宗はここを足掛かりに奥州支配へ乗り出す事になりました。
人取橋古戦場
- 住所:福島県本宮市青田茂庭(国道4号沿いにあります)
- Googleマップ:

奥州と言われた東北にはまだまだ歴史を物語る場所がたくさんあります。古道を辿りながら、そのような場所を訪ねる旅も良いものです。
文・写真・鈴木勝彦/提供元・たびこふれ
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