青森まで続く奥州街道。古くからあるこの街道沿いでは、人々の往来が盛んでそれに伴っていくつもの興亡が繰り返されてきました。

今回はその奥州街道に残された古戦場を紹介しようと思います。

北関東の覇権争い「早乙女坂の戦い」

街道に歴史あり!奥州街道に残る古戦場を訪ねる旅
(画像=『たびこふれ』より 引用)

まず最初は知名度は低いですが北関東の戦国史にその名を残す早乙女坂の戦いから。

時は天文18年(1549年)9月17日。宇都宮一帯を支配していた宇都宮尚綱と那須地方を治めていた那須高資が激突。

戦いの発端は宇都宮家のお家騒動。家中家臣の分裂を制して宇都宮尚綱が当主に就いたが、この騒動が原因で宇都宮地方への領土拡大を目論んでいた那須高資に付け入る隙を与えてしまい、那須に宇都宮侵攻の大義名分を手に入れさせてしまいます。

お互い軍勢を差し向けましたが、戦力は那須300に比べて宇都宮はおよそ2,500を動員。兵力差は歴然としていましたが、那須は進軍。早乙女坂で雌雄を決する事になりました。

まさかの総大将戦死!!

街道に歴史あり!奥州街道に残る古戦場を訪ねる旅
(画像=『たびこふれ』より 引用)

両者が戦った早乙女坂は現在の栃木県喜連川付近にありました。

ここで両軍が激突!物量差で優勢に押しまくる宇都宮軍。このまま押し切るかと思いきや、予想外の方向から那須軍の奇襲を受け混乱状態に陥ります。なんとか体勢を立て直そうと奮戦しましたが有力な家臣が討ち取られ、物量差の優位性を活かせず押し込まれる事態に。

本陣で戦況を見ていた宇都宮尚綱はこの苦境を脱するために自ら前進。軍の先頭に立って指揮を執ります。

この行動で勢いを取り戻すかと思われた時、那須軍の鮎ヶ瀬実光の放った矢が宇都宮尚綱を射抜いた。これにより宇都宮尚綱は戦死。総大将が討ち取られるという、まるで桶狭間合戦の今川義元の様な事態に宇都宮軍は敗走。わずか300足らずの那須軍の勝利という結果に終わりました。

ちなみにその後の宇都宮家ですが、家臣の謀反などにより滅亡の危機になってしまったそうです。

早乙女坂古戦場

  • 住所:栃木県さくら市早乙女1761(旧奥州街道沿いにあります)
  • Googleマップ:
街道に歴史あり!奥州街道に残る古戦場を訪ねる旅
(画像=『たびこふれ』より 引用)