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誰もノーベル賞をもらえなかった電子スピン理論
もう一人の天才 ハイゼンベルク
誰もノーベル賞をもらえなかった電子スピン理論
パウリが導入した二価性とは何を意味しているのでしょうか?
この問題を解決させたのが、オランダ人のウーレンベックとハウトスミットという二人のポスドク研究者でした。
ウーレンベックが考えたのは電子のスピン(回転)でした。
磁場に影響する以上、それは電子の自転だろうと考えたのです。そして、自転ならば変化する種類は「右回り」か「左回り」の2種類しかありません。
ただ、電子は大きさを持たない粒子として記述されます。これが回転した場合、電子の角速度は光速を上回ってしまい相対性理論に反することになります。
パウリもボーアもこのことが引っかかり、電子スピンには反対でしたが、当のアインシュタインが解決可能だという考えを示したことで溜飲を下げます。
このことは後に場の量子論という別の問題に繋がっていきますが、それはまた別のお話です。
なんにせよ、このときウーレンベックの考えた電子が地球のように自転しているというのは誤ったイメージでした。
実際電子スピンは数式で表現されるイメージできない極めて量子的な状態を表しています。
もちろん、それではまったく理解できないので、今でも電子スピンは地球と同じような電子の自転というイメージで説明されています。
しかし電子スピンとは量子力学の話を聞いたときに、多くの人が「?」と躓く問題の1つでしょう。
こうした古典物理学では表現することのできない概念の登場は、古典物理学と量子論という新しい物理学を分けるきっかけになるのです。
現代でも多くの人たちが理解することに苦労する「電子スピン」の発見は、当時もちょっとしたいざこざを起こしました。
実はウーレンベックとハウトスミットの論文発表より、1年ほど前にラルフ・クローニヒという研究者がすでに二人の論文と同じレベルまで理論を完成させていたのです。
ただ、古典物理学で考えた場合あまりに問題の多い電子スピンは、クローニヒ自身も確信が持てなかったため、パウリにどう思うかと相談をしました。
パウリは二価性について、古典物理学の概念では表現できない量子状態だと直感的には理解していたので、クローニヒの電子の自転というアイデアを「電子はそんな風になっていないよ」と馬鹿にして、かなり冷淡な態度で否定しました。
そのためクローニヒは、「あのパウリが違うというなら違うんだろう」と発表を諦めてしまうのです。
しかし、二人のオランダ人の電子スピン理論があっさり世間に受け入れられたのを目の当たりにして、クローニヒはかなりパウリを恨みます。
後に二人は和解しましたが、このことは世間の知る所となり、ノーベル賞委員会もこの騒動でスピンの発見について、ウーレンベックとハウトスミットの二人に賞を送ることを躊躇ってしまいました。
そのため、電子スピンは量子論の歴史に残る大発見だったというのに、この件でノーベル賞を手にした人は誰もいないのです。
しかし、パウリは排他原理の発見でノーベル賞を受賞したため、彼はこのことを後々までかなり気に病んでいました。
パウリは晩年になってもこの出来事を思い返し「若い頃の自分は本当に馬鹿だった」と後悔していたといいます。
もう一人の天才 ハイゼンベルク
パウリと同世代で、重要な物理学者がもう一人存在します。それがヴェルナー・ハイゼンベルクです。
ハイゼンベルクはもともとは数学者になろうとしていましたが、数学の教授とうまく行かず、父の紹介で出会った物理学者ゾンマーフェルトのもとで勉強することになります。
このときゾンマーフェルトの研究室には、パウリも在籍していました。ここでの出会いをきっかけに二人は生涯を通じた物理学研究の盟友となります。
量子論の魅力をハイゼンベルクに教えたのもパウリでした。
その後、ハイゼンベルクはパウリと同様ボーアの講義に感銘を受け、量子論の道を歩む決心をします。
そして、博士号取得後は、ゾンマーフェルトの紹介で、マックス・ボルンの助手として彼の研究室に入りました。
マックス・ボルンは、数学者から論理物理学者へ転向した人物で、この時代、ボーア、ゾンマーフェルトと並んで量子力学の重要人物でした。
もともと数学者を志していたハイゼンベルクにとって、ボルンは最適な教官だったでしょう。
このとき、ボルンは次々に見つかる新事実に物理学はもう1から全部作り直すしか無いだろうと考えていました。そして、その新理論を量子力学と呼んだのです。
ハイゼンベルクの革新的な量子力学の考え方も、ここから始まっていきます。
ただこの当時、ハイゼンベルクはひどい花粉症を患っていて、ある時期は顔が腫れ上がって目も開けられないという状態になっていました。
研究にもまるで集中できないので、彼は仕方なく休暇をとって、花粉の届かない北海の小島「ヘルゴラント」へ旅行にいきます。
そして、やっと訪れた落ち着いた環境の中でハイゼンベルクは、原子核の周りを回る電子について考え始め、そして量子力学の歴史に名を残す大発見をするのです。
もともと数学を志していたハイゼンベルクは、観測できないものに視覚的イメージを持たせることはナンセンスだと考えていました。
原子核の周りを軌道を描いて回る電子というイメージも、ハイゼンベルクにとってはひどく馬鹿馬鹿しいものだったのです。
数学は元来、頭に思い描いてイメージできないことを取り扱うのが得意な学問です。
そのため、ハイゼンベルクは物質の構成は観測できる値とその関係性だけで数学的に表現するべきだ、と考えました。
そこで彼は、電子がエネルギー準位間を瞬間的にジャンプするとき生じる線スペクトルの振動数など、観測で得られる値を全部書き出し、ボーアの対応原理によって量子的な値を古典的な運動量と位置に変換しました。
そして、そこから電子の振る舞いを計算しようとしたのですが、この複雑な式は運動量pと位置qを入れ替えて掛け算できないという、特殊な性質を持っていたのです。
これはつまり、A×BとB×Aという計算をした場合、答えが異なってしまうということです。
これを非可換性といいますが、掛け算の順序で答えが異なる計算というのをハイゼンベルクはそれまで経験したことがありませんでした。
ハイゼンベルクは悩みましたが、この成果をボルンに見せることにします。
するとボルンはその意味にすぐに気づき、「君がやっているのが行列計算だ」と言ったのです。
行列計算は、計算の順序を変えると答えも変わってしまいます。
この当時、行列計算は数学では確立されていたものの、論理物理学者にはほとんど知られていませんでしたが、元数学者であったボルンはこの計算方法を知っていたのです。
数学に熟達したボルンは、この式を洗練させていき、まだ若手のヨルダンという研究者も引き込んで、ハイゼンベルクとともに三者論文と呼ばれる論文にして理論を完成させます。
この理論については、解説することは非常に困難です。
なにせハイゼンベルクが頭にイメージして考えることを禁止して作り上げた理論なのです。
そのため、三者論文は当時、ボーアに見せても「行列だらけで何がなんだかワケがわかりません」と突っ返されたくらい難解なものでした。
しかし、パウリはここで語られる理論を使って、水素原子の線スペクトルを論理的に再現することに成功します。
こうしてハイゼンベルクの傑作と言える、新しい物理学『行列力学』が誕生するのです。
けれど、何を計算しているのかイメージすることもできず、しかもなれない複雑で難解な行列計算を強いるこの行列力学は、同業の物理学者たちからはすこぶる評判が悪いものになりました。
物理学者たちは、行列力学がなんなのかさっぱりわかりませんでしたが、原子内の電子の振る舞いについて正しく計算できるため、仕方なくイヤイヤ受け入れるという状況になってしまったのです。
しかしこの行列力学の、運動量と位置という2つの物理量の非可換性(入れ替えて計算できない)は、2つの確定値を同時に得られないというハイゼンベルクの不確定性原理へ結びついていくことになります。
※こちらの記事は2020年に配信されたものを大幅に改訂して再配信しています。 続き:歴史で学ぶ量子力学【改訂版・3】
参考文献
量子革命: アインシュタインとボーア、偉大なる頭脳の激突 (新潮文庫)
提供元・ナゾロジー
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