「責任」は負えるのか

つまり、両者とも、「責任」の概念を問い直していることになる。はたして、人間は「責任」を負えるのか。原理的に「責任」を負えないとしたら、どうすればいいのか・・・。

自由意志や自己決定は素晴らしいと言われるが、そんな負担に耐えられるのは一部のパワーエリートだけではないか。その現象がなおのこと可視化されたのが、昨今の格差社会と呼ばれるものではないだろうか。

実際には、先進国の人間は、新興国や開発途上国の人びとよりも、豊かである。でも、それを感じられない人が増えてきている。幸福はGDPの絶対額というよりかは、経済が成長過程にあって、明日が今日よりもよくなるという確信が持てなければ得にくいのではないか。幸福度は自己決定権という研究もあるが、それも程度問題なのだろう。

しかし、なんでも自己の責任に帰属させるのは、ほとんどの凡人にはハードな事態だ。

いわんや、ここで扱われているような、見えにくくわかりづらい障害(精神疾患や発達障害など)の当事者が責任など引き受けるのは、なおのこと難しい。

多くの定型発達の人も、できれば決断する場面には出くわしたくはないのではなかろうか。

グーグル先生に決めてもらう。あらゆる生活を自動化して、ライフをハックしているようで、だれかにハックされている状態。それは、動物としての人間の本能なのかもしれない。だからこそ、ネット上のプラットフォーマーの責任も大きく問われている。

「中動態」は現代の病巣に有効か

中動態はケアや介護、精神疾患などには非常に有効だと思われる。

けれども、民法に私的自治の原則があるように、現代社会の制度と中動態は相容れない。あまりに強力で強硬なシステムで、社会はすでに自由意志と能動性を前提として成り立っている・・・。が、人間本来のあり方は中動態的なものかもしれない。

この折り合いをつけようと努力しつづけるのが、近代を超えた現代という時代の営みなのだろう。

文・アゴラブックレビュー/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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